kohは今日も元気です

思うようにブログアップが出来ませんが、俳句のこと、テレビ番組のこと等、日常をぼちぼち書いていきます。

雪が少し積もりました

2016-12-28 17:31:33 | 四季折々に

 

 この冬になって初めてです。

 

雪が少し積もりました。

 

 

ベランダの春菊、これでは育ちそうもないな。

 

雪でスリッパがベチャベチャなので、家の中からパチリ

 

 

 

 

昨夜、年賀状を仕上げなくてはと、遅くまで書いていたら、

風がものすごく強くなり、外がガタガタゴトゴト言って、

7時前、やけに静かやなあ~と、カーテンを開けたら

 

いちめん雪景色。

 

雪おこしの風だったんですね~

 

 

比叡山も、比良山脈も真っ白になってました。

 

山は、少し前から積もる日もあったのですが、下の方まで積もったのは今年初めて♪

 

やっぱりきれいやなあ~

 

私の汚いとこも、世の中の汚いとこも、雪が覆ってくれれば…あ、あかん。

 

覆っただけではあかん。

 

 

SMAP、解散してしまって、なんか寂しいなあ…

 

いいグループやのにね。

 

それぞれ個性的で、まさにオンリーワンで。

 

いつまでも昔のままにまとまってるのは難しいわね。

 

これからはその個性を生かして、今まで以上に人気者になってほしいな。

 

それはそうと、随分前に買った、スマップのCDベスト版。

 

青スマップとか赤スマップとかあったけど、無色(白)しか残ってなかった。

 

それをしばらく聞いていたが、聞かなくなっていつの間にか無くなった。

 

どこへいったやら…

 

 

今日、ようやく年賀状出せました。

 

PCかプリンターか? なんかおかしいので、

 

全て手書き!

 

ようやく年賀状出したけど、夜なべ2日は疲れたし、頭もちょっと痛い。

 

今晩はお酒ちょっと飲んで、早く寝るかな。

 

 

白マスク満員電車に会話なく

 

風邪用心

 

火の用心

 

 

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神戸北野異人館・萌黄の館~南京町へ

2016-12-23 18:27:48 | 行事

 

 

今月初めに行った神戸散策、最後のブログアップですヨロシクオネガイシマス

 

神戸三宮から北野坂をエイコラショと登った山麓は異国情緒がたっぷり。 

 

萌黄の館の玄関アプローチ、クリスマスムードたっぷり♪

 

 

  

食堂兼居間 

 

 化粧室

 

 床に置かれたトランクと帽子

 

旅立ちでしょうか…

 

 

 

こんな空間のある家、いいなあ。

 

天井から吊ってあるのは日本の灯篭ですよね。

 

 

 

 どのお部屋もすてきでした。

 

「萌黄の館」はアメリカ総領事の邸宅として建築されました。

 

「べっぴんさん」のロケ地になったそうです。

 

今回は、改築中ということもあり外観や庭がしっかり見ることが出来ないのが残念でした。

 

 

神戸港は、慶応三年(1868)開港となり、外国船が多く寄港するようになり、また、

外国の方が港近くに邸宅を建て住むようになりました。

 

神戸村と呼ばれていた地帯に、外国人居留地が設けられ、そこだけでは足りなくなり、

北野村と呼ばれていた山手の景色のいい所にも異人館が建つようになりました。

 

同時に日本人も家を建て住むようになったそうです。

 

空襲や阪神淡路大震災から辛うじて免れた建物が残っています。

 

重要文化財もあり、異国情緒たっぷりで、

こんなクリスマスになってくると、カップルの若者が散策に訪れるでしょうね~

 

北野町山本通り、「伝統的建造物群保存地区」

明治大正期に建てられた洋風建築が多く残っている所です。

 

朝ドラ「べっぴんさん」の靴屋さんやキアリスのモデルとなったお店も

ここからそう遠くない三ノ宮センター街辺りらしいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

TRUMP ! 何のお店なのかな?

 

 

 

 

 

 それから神戸と言えば、南京町。

 

 

湯気立てて客呼び入れる南京町  

 

 

始めて行きましたが、人は多いし、店員さんの呼び込みは激しいし、

北野坂で疲れた体には、静かな所がいいのですが食欲が…

 

おなかはいっぱいになりました。

 

シニアのためのカルチャークラブの行動はここで解散。

 

一部のメンバーはルミナリエを見ると。

 

あと数時間後の点灯まで待つ気持ちになれなくて…

 

かなりの混雑も予想されるし…

 

いつもより早い時間に帰路に着きました。

 

あの中途半端になった時間を、異人館街散策に充ててほしかったなあ~

 

と、また行こうという気持ちの残った神戸散策でした。

 

 

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神戸異人館~うろこの家にトランプ氏が…

2016-12-23 16:49:50 | 行事

 

 

 

この写真は先日行った神戸北野の異人館のひとつ うろこの家 です。

とても急な坂の上にあり、大変でした

 

ここには毎年 世相サンタクロース というのがお目見えするそうで、

 今年は

 

トランプ氏


トランプさんが手にするスマホのマークはリンゴにペンが刺さっていて、

 

PPAP

 

 

スマホで何をしてるかと言うと

 

ポケモンGO

 

 

 

トランプさん以外にも、SMAP、リオの金メダリスト、小池百合子さん達を

表した人形が有るらしいのですが、散策の時間が足りなくて確認できず、残念です。

 

 

風見鶏の館の前の広場には、等身大のこんな像があったりして、

 

観光中のお兄さん、ピタッと横に座りました。

 

少女と猫

 

 

大道芸も次々出て来られて

 

 

 

仲間のみんなは、お猿さんを見ると言うけれど、私は

風見鶏の館を先に見に行きました。

これが、よかった♪

猿回しが終わると同時に、どっと風見鶏の館に人が入って来られました。

すいてるうちに見れて、写真撮れてラッキーでした♪

 

 

 

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真田丸船賃六文波枕二十七

2016-12-19 19:18:46 | 真田丸

 

 

今朝も冷え込んでいました。

 

プラスチックごみを捨てに行ったけど、辺りはなんら変わりない。

 

でも何か違う。

 

虚脱感。

 

頭をよぎるのは、昨夜の「真田丸」

 

終わってしまった…

 

このせいで、なんか虚しい朝になっていたらしく。

 

「真田丸」最終回のすべてが見せ場でした。

 

 

 

真田幸村(信繫)に関わる女性の中で きりちゃん が一番長くそばにいましたが、

 

とうとう別れの時が来ました。

 

家康の首を取ることだけを胸に、

 

戦場を駆け抜けて行く姿がきりが最後に見た信繫だったのでしょうか。

 

信繫からの役目を見事果たし、千姫を家康の陣に届けたあと、

 

大坂城に戻ると言っていましたが、きりはどうしたでしょうか。

 

 

信繫の軍が迫って来るのを見た、真田信政が飛び出して来た。

 

それを見た 矢沢三十郎 は信政を守るため、

 

信繫に向かって行ったが、簡単に払われてしまった。

 

ここで、胸キュンですよね。

 

ふたり共本気で戦ってるとは思えない…

 

信繫は小者には関わるなと、家康へとまっしぐら。

 

本当なら信繫の一番側にいて共に戦うはずの三十郎の想いは如何ばかりかと。

 

泣けましたね~

 

 

信繫は家康の首をあと少しで討ち取れるところまできたのに、

 

”遅れるは恥だが役に立つ”

 

秀忠 は父家康の陣に駆け付け、あわやというところで信繫の撃つ短筒から父を救った。

 

あの、秀忠の顔といったら、

 

星野源さん、歌手であり、役者やね~

 

恐れ入りました。

 

 

信繫もいよいよとなり、安居神社で佐助と休息を取っていた。

 

徳川の追っ手は見逃さなかったんですね。

 

辛うじて討ち払ったものの、もう勝ち目はないと判断したのか、

 

自刃を覚悟した。

 

佐助に介錯を託し、笑顔で空を見上げた…

 

 

いつも思うのですが、今生きている人は戦国時代を見てきた人なんていない。

 

歴史書に、書かれていることがすべて事実だろうか。

 

昔から、吾が身をカッコよく伝え残そうと改ざんしているそうだし。

 

信繫も自ら首を差し出したのか、戦の混乱で亡くなっていたのか。

 

兵士が持ち帰った首が家臣により信繫のものと判明したのか。

 

様々な説があるのが、歴史の分からないところです。

 

 

真田丸が始まって、忍者の活躍を期待していた時があります。

 

子供の頃「真田幸村」 「真田十勇士」 などを漫画や子供向けの小説で知りました。

 

「真田十勇士」は大正時代に「立川文庫」から生まれた

 

幸村の架空の家臣十人なんですね~

 

三谷さんは『史実に忠実に…』 なので、この形では出てこなかったんですね~

 

でも、佐助は実在人物という説もいくつかあるようで…

 

とにかく、真田丸では

 

猿飛佐助 だけは大活躍、信繫の最期までそばに寄り添いました。

  

安居神社で信繫が年を聞くと、九歳も佐助が年上。

 

『全身が痛うございます。』 

 

と答えていました。

 

”人生五拾年” と言った時代に、佐助はずば抜けて強靭な体を持っていた。

 

さすが、忍びの者でした、お疲れ様。

 

 

そうそう、それから真田信之の先の妻、 こうさん 

 

こお、を名乗る私としては少し気恥ずかしいような…

 

そんなで、触れなかったのですが、稲さん が後から妻の座に着きました。

 

妻の座を追われたこうさんは、実家へでも帰ると思いきや、なんと、

 

稲さんの侍女に。

 

それからというもの、今までの病弱ともさよならして、明るくよく働く女性になりました。

 

どういうこと?

 

不思議なお方でございます。

 

信之、稲と共に徳川の傘下で、病知らずで天寿を全うされたことと思います。

 

でも、信之が大阪の弟信繫を説得に行くため旅立つとき、

 

六文銭を渡しましたよね、あの時、こうさん、ちょっと咳き込んでいたのが気になる。

 

胸の病などになってなければいいのですけど…

 

ああ、上田にいて信繫が十代の頃より、様々な人達が、

 

信繫と会い、別れ、また会い、別れて行きました。

 

三谷さんは、登場する人すべての

 

『個性を、明かして あげたい。』

 

とおっしゃってました。

 

その言葉のまま、信繫と向き合う人達がその時その時の主人公のように

 

個性豊かに輝いていました。

 

徳川家康で例えるなら、あの、ずるがしこい狸おやじ、何をも恐れない大将。

 

しかし、天下を取るために薄氷を踏む思いで来たのだろうと。

 

確かに、情けない家康を何度も見せてもらいました。

 

最終回、信繫に追い込まれた時なんぞ、切腹しようと小刀を手にしたら、

 

家臣にボオ~~ンと跳ね飛ばされ、思いっきりひっくり返ってましたよヽ(^o^)丿

 

あれだけの衝撃、七拾越えの老人には死ぬか生きるかの状況ですよ、あれは!

 

三谷さん、見事に家康の個性を、明かしてました。

 

家康の内野聖陽さん、それに応えて見事にぶっ飛んでましたね(^_^;)

 

 

最近、大阪に第二、第三の真田丸ではないか?

 

という考えのもと、発掘、研究が進んでいるとか。

 

大河ドラマ「真田丸」をきっかけに、注目度が高まり、

 

こういった発見があるのかもしれません。

 

たかが、テレビドラマではありますが、私のようなものにも

 

歴史にちょっと首を突っ込む機会を増やしてくれて、

 

歴史の不思議な力を感じ、いいもんです♪

 

しかし所詮、歴史力もなく、間違いが多々あったやに存じます。

 

どうぞお許し下さいませ。

 

 

 

今回、副題の無かった最終回に、もし二文字の題を付けるなら

 

 

『 疾風 』

 

 

 

 

さて、船賃六文波枕といえば

 

追い手に帆を掛ける期も訪れず、のらりくらりと。

 

時には、漂流もしました。

 

ここらで錨を降ろすのが、妥当かと。

 

 

  

  

 

 

つたない文章にお付き合い頂き、本当にありがとうございました。

 

それでは。

 

 

 

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真田丸船賃六文波枕二十六

2016-12-18 07:27:10 | 真田丸

 

本日いよいよ最終回

 

信繫にとって大坂の陣は、人生最後の一年。


切羽詰まった日々の中で残していった、グッとくる言葉があります。

 

豊臣家に対する忠義を貫いた心を示すものであり、また、

 

ともすれば、現代人が忘れてしまう心、それを伝える言葉です。

 

大阪夏の陣を前にして

 

徳川家康が信繫に寝返るよう報酬を釣り上げ、再度話を持ちかけた時、

 

”十万石では不忠者にならぬが、一国では不忠者になるとお思いか”

 

冬の陣での信繫の活躍、それに元々真田を煙たく思っていて、

買収の話を持ちかけるも、そうは問屋が卸しません。

報酬が多かろうと少なかろうと、心変わりは致しませんと、一蹴。

 

信濃一国を蹴ったんですよね~ 

 

使者として2人の中継ぎをした叔父、真田信尹も最後は、

思うようにやればいい…と言ってましたね。

 

 

”定めなき浮世にて候へば、一日先は知らざる事に候

我々事などは浮世にあるものとは、おぼしめし候まじく候”

 

 

と、夏の陣の直前、義兄の小山田茂誠に手紙を送っています。

 

 

”今はこれで戦は終わり也、あとは快く戦うべし、狙うは徳川家康の首ただひとつのみ”

 

 

大坂夏の陣、家康の本陣へ突撃の時が来ました。

 

信繫を、

 

 

日の本一の兵

 

 

と言わしめた凄まじき戦いが、

 

 

日曜夜八時

 

 

完結

 

 

見届けます。

 

 

 

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真田丸船賃六文波枕二十五

2016-12-16 07:17:28 | 真田丸

 

NHKの朝の情報番組あさイチに「真田丸」の脚本家

三谷幸喜さんが出演されて、番組の裏話をされていました。

 

元々コントが好きな私は、真田丸の中で展開されるコントが楽しみでした。

 

で、猿飛佐助(藤井隆)の出番が待ち遠しかったのですが、

 

とある回の時、戦の陣に赴いた真田信繁がいつものように

『佐助~!』

と呼びますと、いつものように佐助は、

サア~~ッとあらわれるのですが、アラ!

 

信繫の前を一旦通り過ぎ、またサア~~ッと信繫の前にUターンして来ます。

 

見ていて、滑稽な場面でした。

 

ただ、そのことに歴史上の意味があったとは。

 

実は実話かも。

 

その時の戦場は大変混乱していて佐助も信繫の居るところが分からなかった。

 

それで、思わず行き過ぎてしまった。

 

ということを、三谷さんは表したのだったそうです。

 

いやあ~、そうだったんだあと、

 

他にももっと仕掛けてあったのに気付かずに見ていたんだろうなあ~と、

 

残念でなりません。

 

それから、

 

有働さんのナレーションについては、

 

”ここは大切な所だからと、語気を強めるのではなく、

その出来事を見届ける、添い遂げるかのように語っておられた…”

 

なるほど、さすが脚本家、言いえて妙!ですね。

 

有働さんが家康についてはどの様な思いで?

との問いには、

”家康もそう簡単に天下を取った訳ではなく、おそらく

薄氷を踏む思いであったろうと…”

 

それは、ドラマを見て分かりました。

私も家康という人物は、人をはぐらかすし憎たらしい人と思ってましたが、

真田に何度もしてやられ、苦い思いを重ねていたんですね。

 

同時に、真田昌幸だって、「調略」の人だったし、

戦国の世を渡るのは、生きるか死ぬか、どんなことでもしなければ。

 

そんな時代の武士はみんな必死で生きてきた。

 

 皆、個性が際立っていったかもしれません。

 

それから、真田家ですが、家族のきずなが深いですよね。

 

「犬伏の別れ」 

ドラマを見るまでこの歴史上の出来事を知らなかったのですが、

 

親子兄弟が敵と味方に分かれてまで真田の血を絶やさないようにと策を立てた。

 

大坂の陣に及んでも兄、信之(信幸)は弟、幸村(信繫)を死なせないと動いた。

 

骨肉の争いの多い戦国の世としては珍しいパターンなのではと思います。

 

面白い裏話を聞いて、

 

あさっての最終回、画面のすきまに隠れた作者の意図を

 

ひとつでもくみ取って

 

真田丸船賃六文波枕、凱旋したいものですが、さて。

 

漂流してたからな…

 

 

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飛鳥路~伝飛鳥板蓋宮跡

2016-12-15 19:43:20 | 散策

 

 

婇女乃神吹反明日香風京都乎遠見無用尓布久  志貴皇子

 

(采女の袖ふきかへす 明日香風 都を遠み いたづらに吹く)

 

こんな歌碑がありました。

 

 

志貴皇子(しきのみこ) 

は天智天皇の第七皇子

飛鳥時代から奈良時代初期にかけての皇族。

 

壬申の乱のあと、皇統が天智天皇から天武天皇に移り、それからは政治から離れ

文化人として人生を送った人。

 

自然を謳って、万葉集には6首残されている。

 

そこからしばらくして、

 

 

「伝飛鳥板蓋(いたぶき)宮跡」

 

6世紀末~7世紀後半まで都が置かれていた飛鳥京

 

約百年間、歴代の天皇の宮が造営されるも、遺跡は分かっていません。

 

”史跡伝飛鳥板蓋宮跡には、4つの宮跡、古いものから順に、


飛鳥岡本宮(630~636年、舒明天皇)、

飛鳥板蓋宮(643~645、皇極天皇)、

後飛鳥岡本宮(656~660年、斉明天皇)、

飛鳥浄御原宮(672~694、天武天皇・持統天皇)


が重なって埋もれている。


このうち後飛鳥岡本宮から飛鳥浄御原宮にかけての遺構の一部が、

石敷の広場、石組の大井戸として、現在復元整備されている。”

…だそうです。 

 

 

 

 

右前方に見えるのが、石敷井戸の跡

 

後方の丘は「甘樫丘・あまかしのおか」 

この丘からは大和三山が見渡せるというので、行ってみましたが…

 

これはまた先の話とさせて頂き、この飛鳥京跡には、他にも遺跡が幾つかありました。

 

 

かなり、急な階段でした。

ここを登りますと、 「酒船石」 遺跡があります。

 

 

 

 

大きくてうまくカメラに納まりません。

あちこち、欠けていますが、後世、何かのために石の一部を持ち去ったのではと

言われています。

酒船石そのものの用途も分かっていないですし。

 

 

 

 

カップルがおられて、早くその位置を離れてほしいなあ~と思ったのですが、

タイムアウト!

仕方なく、写し込んでしまいました。

お顔を出す訳には行かないし…

上をカットしました。

竹藪もカット(p_-)

 

 

それから、酒船石から違う道を降りて来ますと、

 

 

 

何の変哲もない、この石積み、実は、

 

飛鳥時代にブロック状の精巧な切石を積んで築いた大規模な石垣の一部だったのです。

 

石垣はこの山に4層に積まれ、盛り土をしたものと分かりました!

 

この丘自体が、築かれたものといいますから、ビックリです。

 

 こんな大がかりなもの造る秀吉みたいな人が飛鳥にも居たんですね~

 

更に階段を下りて行くと、

 

 

 

 

亀形石造物と小判形石造物、と言ってもさっぱりわからない写真です。

ごめんなさい。

 

入場したかったなあ。

 

 

ここでようやく平らな所に下り、ひと安心。

 

ところが、仲間のひとりが足つったあ~と!

 

とても痛そうです。

 

でも、整体に心得のあるメンバーがいて、応急処置完了。

 

次の目的地に行きます。

 

今回は中身の濃~い、遠足です(;O;)

 

 

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ヒヨドリ

2016-12-15 12:00:03 | 生きもの

 

 

今朝、たくさんの鴉が柿の木に来ていましたが、数日前はこんな鳥がいました。

 

ヒヨドリでしょうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

一生懸命に突っついてます。

 渋柿の大富士柿とかいうのが似てますが、分からないなあ~?

しっかり熟すと甘くなると書いてありますが…

 

 

 

 

いろんな鳥が食べにきているみたいです。

 

次第に柿も減って来てるので、鳥も大変。

 

冬将軍も来ますしね。

 

 

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比叡山に雪

2016-12-15 11:16:38 | 四季折々に

 

 今朝はすいぶん冷え込みました。


比叡山に、うっすら雪が。

 

朝7時頃、雪に朝日が映り、さらに朝の月が沈もうとしていました。

 

満月。

 

 

 

比叡山が小麦粉まぶした固いパンに見えるのは、私だけでしょうか… 

 

 

 

柿の木には鴉が朝食に来ていました。

 

 

柿の木で朝食を♪

 

 

 

柿、おいしそう~(^^♪

 

 

 

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真田丸船賃六文波枕二十四

2016-12-12 00:43:22 | 真田丸

 

49回 前夜

 

とうとうここまで来てしまいました。

 

きりちゃん、ほんま、遅すぎますよね~

 

きりちゃん、命を捨ててもいいくらいなんですね~すごい。

 

なんてことしか印象に残ってない訳ではないですよ。

 

 

「大義のない戦」 「うしろめたさ」 

 

上杉さんに言われてましたね、家康さん。

 

戦国の世を終わらせるための戦?

 

親子二代で楯突いてきた真田をひねりつぶす?

 

大坂冬の陣の和議がまとまるやいなや、家康は全力で大坂城の破壊にかかる。

 

真田丸もことごとく壊された。 

 

誓約にない内堀まで埋め、

 

難攻不落の大坂城も裸同然となってしまった。

 

 

 

慶長20年(1615) 大阪夏の陣始まる

 

発端となったのが、4月26日の 大和郡山の戦い 

 

豊臣方 大野治房 (5000人) 勝利

徳川方 筒井定慶 (1000)

 

 

同じ日に、 樫井の戦い

 

豊臣方 大野治胤 (6000)

徳川方 浅野長晟 (5000) 勝利

  

 

5月6日には、 若江の戦い

豊臣方 木村重成 (6000)

徳川方 井伊直孝 (9500) 勝利

 

ドラマの中で木村重成が、ぬかるみに足を取られるシーンがありましたが、

この戦いの地は低湿地帯だったのは本当のこと。

 

また、戦の前に兜の中に香を焚きこめたと言っていたことも、真実。

首実検で家康はそのことに気付き、死を覚悟していたことに感銘を受けた。

 

5月6日 八尾の戦い  

 

豊臣方 長宗我部盛親 (5300) 勝利 

徳川方 藤堂高虎 (5000) 

 

 

5月6日 小松山の戦い 

 

豊臣方 後藤又兵衛 (2800) 戦死 

徳川方 水野勝成 (2万) 勝利

 

後藤又兵衛らは目標の迎撃地点へ進むも霧が出て遅れ、

すでに徳川軍に占領されていた。

そこで小松山に陣を取り戦うも多勢に無勢で、戦死。

 

 

同日 道明寺の戦い  



豊臣方 薄田兼相 (7300)

徳川方 水野勝成 (2万) 勝利

薄田兼相が戦死をしたが、かろうじて豊臣軍は守っていたところに

伊達政宗の軍が進んできた。

それを阻んだのが真田信繫の軍。

 

テレビでは何故か伊達方は砲撃を止めました。

 

政宗と幸村のアイコンタクト、何か通じるものがあるのか…

 

妻子を託しましたね。

 

その事は先週、きりちゃんにフラれ飛び上がった猿飛佐助が段取り付けました。

 

そのきりちゃんは、大役を信繫から頼まれ、命を賭して遂行する覚悟ですね。

 

信繫さんは終活を…

 

 

なんともやるせない「49回 前夜」でした。 

 

きりちゃんに束の間だけど幸せな時があったことだけはよかった。

 

信繫さん、でくのぼうではなかった。

 

 

でも、信繫は伊達政宗に妻子を託しました。

 

武将ふたりは頻繁に会って話をたくさんした訳でもないでしょうに、

 

あれだけの信頼はどこから生まれたんでしょ。

 

そんな、互いを信じ合えます、てな場面が過去にありましたっけ?

 

 

 

もはや、来週は最終回

 

早すぎる。

 

 

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