4月23日以来の「龍馬点」 を書きました (^_^;)
今日も始めに 「TV視聴率ランキング」(関西地区)を。
4月19日~25日
1位: 探偵!ナイトスクープ 22.4%
2位: 龍馬伝 21.1%
3位: 報道ステーション(21日) 20.3%
4月25日~5月2日
1位: 秘密のケンミンショー 21.0%
「龍馬伝」 は残念ながら、16位 18.7% でした (T_T)
5月3日~9日
1位: 探偵!ナイトスクープ 23.1%
「龍馬伝」 は 7位 18.7% でした。
さて、今回は「土佐藩主」 について、ほんの少し。
土佐藩初代当主といえば「山内一豊」
NHK大河ドラマ「功名が辻」 で描かれ、また昔から「内助の功」
という言葉を生んだ事で有名ですが。
この時は、「山内さん御夫婦は良い人」 の印象でしたよね。
(三年ほど前に高知に行った時の、「土佐山内家宝物資料館」の入館券が残ってました。
かなりの点数の宝物が展示されていました。
さすが、いい物使ってたなあ~って言ったりして。
旧山内家下屋敷長屋
また近くにあった、↑この建物は、「山内容堂」の 下屋敷跡に残る本格的な武家長屋。
下層武士のために建てられたもので、二階建で南北に長い入母屋造りの建物
国の重要文化財。
自由に入れて見てきましたが、幾つかの小部屋がズラッと並んでいました。
部屋の中まで入れ二階にも上がって来ましたが、暗かったです。
隣の方に「三翠園」 という立派な旅館がありまして、その関係者らしき方が、
武家長屋に入るのを躊躇している私に、『どうぞ、どうぞ!』 と言って下さいました(^^♪
山内家と関係あるのかなと思ったら、旅館の敷地も下屋敷跡でした。
土佐藩は、戦国時代末期、長宗我部氏が藩主でした。
慶長五年(1600) 関ヶ原の合戦のあと、それまで遠江掛川城主であった、
「山内一豊」が徳川家康より、土佐藩九万八千石を与えられ藩主となります。
(長宗我部氏は、改易されています)
関ヶ原の合戦以来、土佐では山内家の侍は「上士」 それ以外は「下士」と呼び、
侍の中でも厳しい身分制度をつくり差別が、まかり通っていたのです。
長宗我部家の侍は在郷武士であり、「郷士」 と呼ばれ、これは
「下士の中の上位」 にあたります。
こうした、差別階級の不公平、不合理が土佐藩の中で沸々と湧きあがり、
幕末の「土佐勤王党」 を生むなどの原動力となったのでしょうか。
「龍馬伝」 に登場する「第15代土佐藩主・山内容堂(豊信・とよしげ)」
近藤正臣さんが演じておられますが…、
まあ、なんて嫌な奴。 という感じにしてありますが…。
傲慢な感じで、昼間っからお酒ばかり飲んで、(無類のお酒好きだったとか)
でも、詩を読む文化人でもあり自らを「鯨海酔侯」 といい、強烈な個性の持ち主だったようです。
「山内容堂」 はペリー来航を機に頭角を現しました。
それはこの時、老中阿部正弘が、アメリカ大統領親書の内容を、
全国の諸大名に公開するという前代未聞の挙に出たのですが、
これがみんなの心に火を付け、日本の行く末を論じ始めるきっかけとなりました。
容堂は海防、流通、軍備などに関する藩政改革を推進したのです。
しかし幕府には保守派と改革派の対立が激しくなり、将軍継嗣問題にも
波及することになり容堂も関わってきます。
容堂は「井伊直弼」 の 「安政の大獄」 で隠居謹慎を命じられ
名を「豊信」から「容堂」としました。
のちに容堂のお気に入りだった配下「吉田東洋」の暗殺に関わったとして
「土佐勤王党」の武市半平太らを弾圧します。
「龍馬伝」 では今、平井収二郎は切腹、武市半平太もどうなることやら
大変な事になっていますよね。
徳川最後の将軍「慶喜」 就任後も尊攘派の動きは激しくなる一方で
「龍馬」と「後藤象二郎」 の建議を受け入れ、「大政奉還」を「慶喜」に
建白し、徳川幕府の保護に努めました。
明治維新後、「内国事務総裁」に就任しますが、相変わらずの豪快な行動で、
積年の飲酒が元で46歳で亡くなっています。
時折、桂浜にヌタリヌタリとやって来る鯨、
ひょっとしたら「土佐恋し…」と容堂公が、黄泉の国からお里帰りかも…、
桂浜では、遥かニューヨークを見やる龍馬さんと月見酒でも酌み交わしながら、
話してるかも…、
『今の日本も もう一度 せんたくしやーせんといかんちやね』