kohは今日も元気です

思うようにブログアップが出来ませんが、俳句のこと、テレビ番組のこと等、日常をぼちぼち書いていきます。

真田丸船賃六文波枕二十七

2016-12-19 19:18:46 | 真田丸

 

 

今朝も冷え込んでいました。

 

プラスチックごみを捨てに行ったけど、辺りはなんら変わりない。

 

でも何か違う。

 

虚脱感。

 

頭をよぎるのは、昨夜の「真田丸」

 

終わってしまった…

 

このせいで、なんか虚しい朝になっていたらしく。

 

「真田丸」最終回のすべてが見せ場でした。

 

 

 

真田幸村(信繫)に関わる女性の中で きりちゃん が一番長くそばにいましたが、

 

とうとう別れの時が来ました。

 

家康の首を取ることだけを胸に、

 

戦場を駆け抜けて行く姿がきりが最後に見た信繫だったのでしょうか。

 

信繫からの役目を見事果たし、千姫を家康の陣に届けたあと、

 

大坂城に戻ると言っていましたが、きりはどうしたでしょうか。

 

 

信繫の軍が迫って来るのを見た、真田信政が飛び出して来た。

 

それを見た 矢沢三十郎 は信政を守るため、

 

信繫に向かって行ったが、簡単に払われてしまった。

 

ここで、胸キュンですよね。

 

ふたり共本気で戦ってるとは思えない…

 

信繫は小者には関わるなと、家康へとまっしぐら。

 

本当なら信繫の一番側にいて共に戦うはずの三十郎の想いは如何ばかりかと。

 

泣けましたね~

 

 

信繫は家康の首をあと少しで討ち取れるところまできたのに、

 

”遅れるは恥だが役に立つ”

 

秀忠 は父家康の陣に駆け付け、あわやというところで信繫の撃つ短筒から父を救った。

 

あの、秀忠の顔といったら、

 

星野源さん、歌手であり、役者やね~

 

恐れ入りました。

 

 

信繫もいよいよとなり、安居神社で佐助と休息を取っていた。

 

徳川の追っ手は見逃さなかったんですね。

 

辛うじて討ち払ったものの、もう勝ち目はないと判断したのか、

 

自刃を覚悟した。

 

佐助に介錯を託し、笑顔で空を見上げた…

 

 

いつも思うのですが、今生きている人は戦国時代を見てきた人なんていない。

 

歴史書に、書かれていることがすべて事実だろうか。

 

昔から、吾が身をカッコよく伝え残そうと改ざんしているそうだし。

 

信繫も自ら首を差し出したのか、戦の混乱で亡くなっていたのか。

 

兵士が持ち帰った首が家臣により信繫のものと判明したのか。

 

様々な説があるのが、歴史の分からないところです。

 

 

真田丸が始まって、忍者の活躍を期待していた時があります。

 

子供の頃「真田幸村」 「真田十勇士」 などを漫画や子供向けの小説で知りました。

 

「真田十勇士」は大正時代に「立川文庫」から生まれた

 

幸村の架空の家臣十人なんですね~

 

三谷さんは『史実に忠実に…』 なので、この形では出てこなかったんですね~

 

でも、佐助は実在人物という説もいくつかあるようで…

 

とにかく、真田丸では

 

猿飛佐助 だけは大活躍、信繫の最期までそばに寄り添いました。

  

安居神社で信繫が年を聞くと、九歳も佐助が年上。

 

『全身が痛うございます。』 

 

と答えていました。

 

”人生五拾年” と言った時代に、佐助はずば抜けて強靭な体を持っていた。

 

さすが、忍びの者でした、お疲れ様。

 

 

そうそう、それから真田信之の先の妻、 こうさん 

 

こお、を名乗る私としては少し気恥ずかしいような…

 

そんなで、触れなかったのですが、稲さん が後から妻の座に着きました。

 

妻の座を追われたこうさんは、実家へでも帰ると思いきや、なんと、

 

稲さんの侍女に。

 

それからというもの、今までの病弱ともさよならして、明るくよく働く女性になりました。

 

どういうこと?

 

不思議なお方でございます。

 

信之、稲と共に徳川の傘下で、病知らずで天寿を全うされたことと思います。

 

でも、信之が大阪の弟信繫を説得に行くため旅立つとき、

 

六文銭を渡しましたよね、あの時、こうさん、ちょっと咳き込んでいたのが気になる。

 

胸の病などになってなければいいのですけど…

 

ああ、上田にいて信繫が十代の頃より、様々な人達が、

 

信繫と会い、別れ、また会い、別れて行きました。

 

三谷さんは、登場する人すべての

 

『個性を、明かして あげたい。』

 

とおっしゃってました。

 

その言葉のまま、信繫と向き合う人達がその時その時の主人公のように

 

個性豊かに輝いていました。

 

徳川家康で例えるなら、あの、ずるがしこい狸おやじ、何をも恐れない大将。

 

しかし、天下を取るために薄氷を踏む思いで来たのだろうと。

 

確かに、情けない家康を何度も見せてもらいました。

 

最終回、信繫に追い込まれた時なんぞ、切腹しようと小刀を手にしたら、

 

家臣にボオ~~ンと跳ね飛ばされ、思いっきりひっくり返ってましたよヽ(^o^)丿

 

あれだけの衝撃、七拾越えの老人には死ぬか生きるかの状況ですよ、あれは!

 

三谷さん、見事に家康の個性を、明かしてました。

 

家康の内野聖陽さん、それに応えて見事にぶっ飛んでましたね(^_^;)

 

 

最近、大阪に第二、第三の真田丸ではないか?

 

という考えのもと、発掘、研究が進んでいるとか。

 

大河ドラマ「真田丸」をきっかけに、注目度が高まり、

 

こういった発見があるのかもしれません。

 

たかが、テレビドラマではありますが、私のようなものにも

 

歴史にちょっと首を突っ込む機会を増やしてくれて、

 

歴史の不思議な力を感じ、いいもんです♪

 

しかし所詮、歴史力もなく、間違いが多々あったやに存じます。

 

どうぞお許し下さいませ。

 

 

 

今回、副題の無かった最終回に、もし二文字の題を付けるなら

 

 

『 疾風 』

 

 

 

 

さて、船賃六文波枕といえば

 

追い手に帆を掛ける期も訪れず、のらりくらりと。

 

時には、漂流もしました。

 

ここらで錨を降ろすのが、妥当かと。

 

 

  

  

 

 

つたない文章にお付き合い頂き、本当にありがとうございました。

 

それでは。

 

 

 

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真田丸船賃六文波枕二十六

2016-12-18 07:27:10 | 真田丸

 

本日いよいよ最終回

 

信繫にとって大坂の陣は、人生最後の一年。


切羽詰まった日々の中で残していった、グッとくる言葉があります。

 

豊臣家に対する忠義を貫いた心を示すものであり、また、

 

ともすれば、現代人が忘れてしまう心、それを伝える言葉です。

 

大阪夏の陣を前にして

 

徳川家康が信繫に寝返るよう報酬を釣り上げ、再度話を持ちかけた時、

 

”十万石では不忠者にならぬが、一国では不忠者になるとお思いか”

 

冬の陣での信繫の活躍、それに元々真田を煙たく思っていて、

買収の話を持ちかけるも、そうは問屋が卸しません。

報酬が多かろうと少なかろうと、心変わりは致しませんと、一蹴。

 

信濃一国を蹴ったんですよね~ 

 

使者として2人の中継ぎをした叔父、真田信尹も最後は、

思うようにやればいい…と言ってましたね。

 

 

”定めなき浮世にて候へば、一日先は知らざる事に候

我々事などは浮世にあるものとは、おぼしめし候まじく候”

 

 

と、夏の陣の直前、義兄の小山田茂誠に手紙を送っています。

 

 

”今はこれで戦は終わり也、あとは快く戦うべし、狙うは徳川家康の首ただひとつのみ”

 

 

大坂夏の陣、家康の本陣へ突撃の時が来ました。

 

信繫を、

 

 

日の本一の兵

 

 

と言わしめた凄まじき戦いが、

 

 

日曜夜八時

 

 

完結

 

 

見届けます。

 

 

 

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真田丸船賃六文波枕二十五

2016-12-16 07:17:28 | 真田丸

 

NHKの朝の情報番組あさイチに「真田丸」の脚本家

三谷幸喜さんが出演されて、番組の裏話をされていました。

 

元々コントが好きな私は、真田丸の中で展開されるコントが楽しみでした。

 

で、猿飛佐助(藤井隆)の出番が待ち遠しかったのですが、

 

とある回の時、戦の陣に赴いた真田信繁がいつものように

『佐助~!』

と呼びますと、いつものように佐助は、

サア~~ッとあらわれるのですが、アラ!

 

信繫の前を一旦通り過ぎ、またサア~~ッと信繫の前にUターンして来ます。

 

見ていて、滑稽な場面でした。

 

ただ、そのことに歴史上の意味があったとは。

 

実は実話かも。

 

その時の戦場は大変混乱していて佐助も信繫の居るところが分からなかった。

 

それで、思わず行き過ぎてしまった。

 

ということを、三谷さんは表したのだったそうです。

 

いやあ~、そうだったんだあと、

 

他にももっと仕掛けてあったのに気付かずに見ていたんだろうなあ~と、

 

残念でなりません。

 

それから、

 

有働さんのナレーションについては、

 

”ここは大切な所だからと、語気を強めるのではなく、

その出来事を見届ける、添い遂げるかのように語っておられた…”

 

なるほど、さすが脚本家、言いえて妙!ですね。

 

有働さんが家康についてはどの様な思いで?

との問いには、

”家康もそう簡単に天下を取った訳ではなく、おそらく

薄氷を踏む思いであったろうと…”

 

それは、ドラマを見て分かりました。

私も家康という人物は、人をはぐらかすし憎たらしい人と思ってましたが、

真田に何度もしてやられ、苦い思いを重ねていたんですね。

 

同時に、真田昌幸だって、「調略」の人だったし、

戦国の世を渡るのは、生きるか死ぬか、どんなことでもしなければ。

 

そんな時代の武士はみんな必死で生きてきた。

 

 皆、個性が際立っていったかもしれません。

 

それから、真田家ですが、家族のきずなが深いですよね。

 

「犬伏の別れ」 

ドラマを見るまでこの歴史上の出来事を知らなかったのですが、

 

親子兄弟が敵と味方に分かれてまで真田の血を絶やさないようにと策を立てた。

 

大坂の陣に及んでも兄、信之(信幸)は弟、幸村(信繫)を死なせないと動いた。

 

骨肉の争いの多い戦国の世としては珍しいパターンなのではと思います。

 

面白い裏話を聞いて、

 

あさっての最終回、画面のすきまに隠れた作者の意図を

 

ひとつでもくみ取って

 

真田丸船賃六文波枕、凱旋したいものですが、さて。

 

漂流してたからな…

 

 

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真田丸船賃六文波枕二十四

2016-12-12 00:43:22 | 真田丸

 

49回 前夜

 

とうとうここまで来てしまいました。

 

きりちゃん、ほんま、遅すぎますよね~

 

きりちゃん、命を捨ててもいいくらいなんですね~すごい。

 

なんてことしか印象に残ってない訳ではないですよ。

 

 

「大義のない戦」 「うしろめたさ」 

 

上杉さんに言われてましたね、家康さん。

 

戦国の世を終わらせるための戦?

 

親子二代で楯突いてきた真田をひねりつぶす?

 

大坂冬の陣の和議がまとまるやいなや、家康は全力で大坂城の破壊にかかる。

 

真田丸もことごとく壊された。 

 

誓約にない内堀まで埋め、

 

難攻不落の大坂城も裸同然となってしまった。

 

 

 

慶長20年(1615) 大阪夏の陣始まる

 

発端となったのが、4月26日の 大和郡山の戦い 

 

豊臣方 大野治房 (5000人) 勝利

徳川方 筒井定慶 (1000)

 

 

同じ日に、 樫井の戦い

 

豊臣方 大野治胤 (6000)

徳川方 浅野長晟 (5000) 勝利

  

 

5月6日には、 若江の戦い

豊臣方 木村重成 (6000)

徳川方 井伊直孝 (9500) 勝利

 

ドラマの中で木村重成が、ぬかるみに足を取られるシーンがありましたが、

この戦いの地は低湿地帯だったのは本当のこと。

 

また、戦の前に兜の中に香を焚きこめたと言っていたことも、真実。

首実検で家康はそのことに気付き、死を覚悟していたことに感銘を受けた。

 

5月6日 八尾の戦い  

 

豊臣方 長宗我部盛親 (5300) 勝利 

徳川方 藤堂高虎 (5000) 

 

 

5月6日 小松山の戦い 

 

豊臣方 後藤又兵衛 (2800) 戦死 

徳川方 水野勝成 (2万) 勝利

 

後藤又兵衛らは目標の迎撃地点へ進むも霧が出て遅れ、

すでに徳川軍に占領されていた。

そこで小松山に陣を取り戦うも多勢に無勢で、戦死。

 

 

同日 道明寺の戦い  



豊臣方 薄田兼相 (7300)

徳川方 水野勝成 (2万) 勝利

薄田兼相が戦死をしたが、かろうじて豊臣軍は守っていたところに

伊達政宗の軍が進んできた。

それを阻んだのが真田信繫の軍。

 

テレビでは何故か伊達方は砲撃を止めました。

 

政宗と幸村のアイコンタクト、何か通じるものがあるのか…

 

妻子を託しましたね。

 

その事は先週、きりちゃんにフラれ飛び上がった猿飛佐助が段取り付けました。

 

そのきりちゃんは、大役を信繫から頼まれ、命を賭して遂行する覚悟ですね。

 

信繫さんは終活を…

 

 

なんともやるせない「49回 前夜」でした。 

 

きりちゃんに束の間だけど幸せな時があったことだけはよかった。

 

信繫さん、でくのぼうではなかった。

 

 

でも、信繫は伊達政宗に妻子を託しました。

 

武将ふたりは頻繁に会って話をたくさんした訳でもないでしょうに、

 

あれだけの信頼はどこから生まれたんでしょ。

 

そんな、互いを信じ合えます、てな場面が過去にありましたっけ?

 

 

 

もはや、来週は最終回

 

早すぎる。

 

 

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真田丸船賃六文波枕二十三

2016-11-27 17:54:46 | 真田丸

 

豊臣時代(1583~1615)の大坂城

 

 

↓こちらは、徳川時代の大坂城

 

 

並べますと、豊臣の大坂城の上に盛り土をし、徳川の大坂城を築いています。

 

 

 

最初の絵図の丸印のついている石垣が、昭和時代に発掘作業により見つかりました。

 

今は見学できませんが、先日ブラタモリで撮影されたのを見ました。

 

いずれ公開されるようで、楽しみです。 ハヤクシテクレナイト…

 

「真田丸」

 

砲弾が茶々局の座所目がけて打ち放たれたのが和睦に動いたきっかけとか。

 

大坂城の堀を埋められ、外にある真田丸は壊される。

 

家康にまんまと騙され和議以外の堀まで埋められてしまい…

 

家康はわずか4か月ほどで堀を埋め尽くし、再び征伐すると宣言し

 

夏の陣が始まります。

 

 

 

現在の三光神社に「真田の抜け穴」が残っていますが、

大坂城へと続いていると伝わります。

 

このあと、抜け穴を抜けるシーンはあるのだろうか?


 

 

 

 

夏の陣の結末は、明らかであり覆しようもありませんが、

その過程で、どのようなことを三谷幸喜さんは盛り込まれるのでしょうか?

 

今年の大坂城

 

 

大坂城から南を見ると、通天閣、あべのハルカスが見えます。

 

通天閣の辺りが天王寺で「茶臼山」が近くにあります。

 

冬の陣では家康が陣を敷き、夏の陣では幸村がここまで来ます。

 

更にこの近くには、幸村最期を迎えた「安居神社」もあり、

 

次第に悲しくなってきますが、「真田丸」さいごまでしっかりみ見届けないと。

 

 

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真田丸船賃六文波枕二十二

2016-11-14 12:45:38 | 真田丸

 

「日の本一のつわもの」

 

そんな表現が400年後の、日の本の、一凡人の私にも伝わって参りました。

 

 

その戦いぶりとはどのようなものだったのか。

 

まず、嫡男の大助が旗を振り謡「高砂」を唄って相手を挑発し、佐助が爆発音を立てる。

 

その音を仲間割れと勘違いした前田利常の軍勢が

チャンスとばかりに空堀を登ってくる。

 

同じく、井伊直孝も後から攻めてくる。

 

空堀を充分登らせぐっと引き寄せたところで鉄砲隊が一斉に打ち放つ。

 

それでも鉄砲玉をかいくぐって出丸に突入して来た徳川の兵を、

幸村、堀田作兵衛らが、槍で討つ。

 

こうして、豊臣軍は勝った。

 

「空堀」の底の部分は、大きな畝の様にデコボコが付けてありました。

 

あれは、足を取られ進撃を阻みますね。

 

実際の空堀はあの数倍のスケールだったのかもしれないな。

 

現在、真田丸のあったとされる所の近辺には「空堀通り」をはじめ、

「空堀」が地名としていくつも残っています。

 

ただ、江戸時代に徳川が築いた大坂城に関する空堀の名残りかもしれませんが

 

 

そうなんですよね、大坂城は紆余曲折を経て今の天守を構えています。

 

その歴史は、

 

① 明応5年(1496)浄土真宗の蓮如上人が坊舎を建てのちに石山本願寺となる

 

② 石山本願寺の地に、天正11年(1583)豊臣秀吉が大坂城を築城

 

(これは、織田信長が生前この地は天然の要塞であり、港を設けるにも適した土地であるから

城を建てたいと言っていたのを聞いていたので、それを実行したと言われています)

 

 

③元和6年(1620)徳川秀忠が夏の陣で落城した大坂城を再築

 

大坂藩を廃し、豊臣色をすっかり払拭した大坂城は江戸幕府直轄となる。

城主は将軍であるが、代々有力な譜代大名が大坂城代となり預かる。

 

(天守は寛永3年に建つが寛文5年(1665)落雷で焼失。

わずか39年でなくなる。

以後、昭和の復興まで266年間天守をなくしたままだった)

 

 

④明治維新の動乱で、櫓をはじめ大部分を焼失

 

 

⑤昭和6年(1931)市民の熱意によって現在の天守閣が復興

 

 

⑥第二次世界大戦で空襲を受けたがその後は史跡公園として整備されている。

 

こうした歴史を持つ大坂城、浪速の人も他の地の人も、

江戸幕府の城ということは忘れ去り、豊臣の大坂城と思っていた。

 

それが近年地下より古い石垣が発掘され、今の城は豊臣の大坂城跡に盛り土をして

建てた江戸幕府の大坂城と再認識することになったのです。

盛り土、出ました(^_^)/

 

 

 

※「大阪夏の陣図屏風~右隻」

 

※同左隻

 

 

左右合わせると、こうなりまして六曲一双の屏風絵

中央に大坂城が描かれています。

 

各隻150.3x360.7cm。

人物5071人、馬348頭、幟1387本、槍974本、弓119張、鉄砲158挺など。

(凄いですね、誰が数えたのか)

 

右隻には慶長20年5月7日(1615.6.3) 大坂夏の陣終盤の様子

左隻には大坂城、落城後の大混乱を描いている。

 

大坂城を中心に、向かって右が南、左が北。

 

右から左へ合戦の推移が自然に展開している。

 

(絵って、瞬間を切り取ったものと思ってましたが、

時の流れによる情勢の変化も書くことができるのですね~)

 

大変生々しい描写。

 

 

 この大阪夏の陣図屏風ですが、

もちろんポスターで4月、大坂城に行った時に買ったものです。

本物は六曲一双の屏風絵で、大阪城天守閣所蔵の重要文化財です。

実際見て来ましたが、ゾクっとしました。

 

一説に、合戦に参加した福岡藩の黒田長政が家来に命じて書かせたものとあります。

 

部分的に拡大して撮ってみました。 

 この屏風の折り目のすぐ左側中央に白馬がいて、その下に鹿の角の兜をかぶった武士が

真田幸村です。

 

赤備えの真田軍の中心に居ますね。

 

夏の陣なのでここは茶臼山辺り。 

 

↓冬の陣の時は茶臼山には徳川家康が陣取っていました  

大坂冬の陣の布陣 

 

大坂冬の陣、豊臣軍が勝った…

 

なのでしょうか…

 

来週は第46回 砲弾

 

予告編で幸村が、和睦はだめ! と言っていたのが気になる…

 

 

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真田丸船賃六文波枕二十一

2016-11-10 18:41:44 | 真田丸

 

ついに、出城「真田丸」 登場

 

慶長19年(1614)真田幸村は大坂城の南側の守りが弱いので砦がいると考え、

わずか一か月で真田丸を築きました。

(又の名を偃月城・えんげつじょう~本城から半月形に張り出して造った出丸の意)

 

 

 

 

古地図ってワクワクします♪

大坂城の厨で後藤又兵衛と策を講じていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

大坂冬の陣

 

徳川方の顔ぶれを見ると、錚々たるメンバーです。

 

 

大阪冬の陣

 

秀吉方は、牢人を集めること、兵糧を確保すること、城周りの造りの強化、

また、武器の買い入れなどに、秀吉が遺した金や銀を使いました。

沢山遺していたんですね~

この頃は遺産相続税なんてものはありませんよね。

 

ただ、諸大名の中に味方に付くものはいませんでした。

 

 

豊臣秀頼方に集まった兵は約10万人(徳川方20万)

 

① 豊臣譜代衆 : 大野治長、治房、治胤(はるたね)兄弟。木村重成

② 牢人五人衆 : 真田幸村、長宗我部盛親、明石全登(てるすみ)、

後藤又兵衛、毛利勝永

 

牢人衆は野戦を主張しましたが、大野氏らの言う籠城戦に決まりました。

 

 

 

 

 

真田軍は武田氏に仕えていた頃と同じ赤備えで挑みます。

 

 

この戦いは銃撃戦だったそうですが、この後は、

 

第45回真田丸「完封」にて

 

 

 

さて、この真田丸跡ですが、

 

大阪市営地下鉄の長堀鶴見緑地線「玉造駅」下車、「宰相山公園」から「真田山公園」辺りが

城跡とされます。

 

4月に真田丸を訪ねて一日この辺りを歩いています。

 

 

この辺りは坂道の多い所でした。

 

 

学校のグラウンドを背にして、真田丸顕彰碑が建っていました。

 

 

 

 心眼寺(しんがんじ)

真田幸村のお墓があります。

 

 

 

こうして、「真田」の名前は残っています。

 

学校や、お店、様々なものに真田が付いてます。

 

地元の方は、誇りに思っておられるのでしょうね。

 

気温の高めの春に、訪ねていましたが、

 

冬の陣はちょうど今頃あったのでしょうか?

 

見れなかった所もいくつかありそのうちにと思っていますがなかなか行けません。 

 

この辺りは街中で、道路、家も多く、大変発達していて

発掘も難しく、分からないことも多いのでしょう。

 

上の写真の顕彰の碑から心眼寺、その他数寺を結ぶ地帯が真田丸跡地か?

 

形は偃月ではなく四角ではないか?

など…???

 

堀の跡や空堀の跡らしき地形も発掘により出ているとか。

 

これからの発掘、研究結果が楽しみです。

 

真田山を訪れた時の…

 

 

 

かぎろひの坂を出丸へ真田山

 

 

 

冬の句考えてみます(^_^;)

 

 

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真田丸船賃六文波枕 二十

2016-10-16 16:49:11 | 真田丸

 

大坂の陣の発端となった、

 

「国家安康」 「君臣豊楽」

 

方広寺(大仏殿)の釣鐘 (重要文化財)

 

片桐且元は釣鐘の銘文を南禅寺の僧「文英清韓・ぶんえいせいかん」

に命じました。

文英は漢詩文に秀でた僧だったようですが、

この文は迂闊やわ~ねえ。

 

当時の五山の僧も問題視したそうですよ。

 

そもそも、家康が仕組んだものという風にも伝わっているので、どうなんでしょう。

片桐且元さん、秀吉に仕えていた頃から胃の具合があまり良くなかったみたいですが、

さぞや、更に調子悪くなったでしょうね。

中堅社員の辛いところは今も昔も… 

 

 

 

 

 格天井、華やかですね~ 

 

 

 

ここにあった大仏殿や大仏はもう残っていないのに、

一番問題にしたこの梵鐘だけは、1614年鋳造以来ずっと残っています。

どういうこと?

 

 

方広寺本殿

本尊は盧舎那仏 

 

 

 隣には秀吉を祀った

豊国(とよくに)神社があります。

 

この辺りに元は大仏殿が建っていました。

 

 

方広寺を区切った石垣が残っています。

特に角のは大きな石でした。

  

 

京都国立博物館ですが、この敷地も元は方広寺でした。 

 

 

三十三間堂の南出口から北向きに撮ってます。

 

道のどん突きの白い屋根は博物館です。その向こう側に方広寺大仏殿がありました。

 

 

 

方広寺の南大門、この両側に「太閤塀」という土塀が続きます。 

 

京都にはどんだけ豊臣氏の遺構が残っているのかと感心します。

 

JR京都駅の1番ホーム、降り立ちますとその足元は元 「御土居」 だった…

 

今度京都に来られましたら、1番ホームをしみじみと踏みしめて下さいね(^^♪

 

 

 

この面々、みんな若いな。

 

鴨川の七条大橋を歩いていたら遥か南に伏見桃山城がうっすらと見えました。 

 

 

 

 

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真田丸船賃六文波枕 十九

2016-10-03 01:47:07 | 真田丸

 


九度山での蟄居生活から11年、昌幸は病死しました。


最後に叫んだ言葉が、親方様(武田信玄)。


九度山を降りて、上田に帰る夢を抱きつつ…


秀吉に「表裏比興の者」と言わしめた昌幸ですが、

それは、死ぬか生きるかの戦国時代に真田を残すためという

一本の筋が通っていたと言えます。


 二度にわたる上田合戦で、徳川の大軍に勝利。

その間、織田、北条、徳川、上杉、豊臣など、次々と主君を変える。

など、知略を持って真田を守ってきた。


あきれるほど、憎たらしい。

でも憎み切れないんですよね。

大博打じゃあ~の口癖もあっけらかんとして。

確かに、「真田」は残りました。


九度山で生活する真田の皆さんに比べ、昌幸の奥方の薫様。

江戸で、けっこう気楽に過ごしておられたような。

でも、これで良かったのかもしれません。


残った信繫、台所事情が大変な中、様々なコトを考えておられます。

ひょっとして、「武士の家計簿」も付けてたかな、んてね。


「真田紐」 と言うものを考え出したのですね。

サナール転じて真田紐。


番組の後の紀行集の時映った真田紐と比べると、ドラマの中の真田紐は

折り方も荒く発色も地味でしたが、とても味があって、私も

「一本おいくらですか?」

なあんて、聞いてみたかった。

ね、佐助さん♪


真田丸、私は楽しみにしてる事があるのです。


それは、ドラマのそこここに散りばめられた、会話の中に

歴史的会話に混じって、その時代、こんな事は言わんやろ~

と言うようなセリフです。


例えば、九度山に訪ねて来た信之に、信繫が父の形見の

戦略の奥義を記したものの束を見せた時、

理解不能的なマークばかりで書いてあることに

『全部こんな感じか?』

『全部こんな感じです。』

兄さん、弟さん、真面目な顔してしれ~っと言うなんて。

真田紐検査後の佐助も。


 


貧しいながらも、戦もなく常に家族が一緒に暮らしていられる、

そんな九度山の生活は、信繫、人生の中で

いちばん穏やかな時だったのではないでしょうか。

 

武田信玄が亡くなり、迷走を始めた頃、その渦中で信繫は、

たとえ領主が変わろうとも、信濃の山々は変わらずそこにある、

その景色が好き…

九度山より信州の方がいいに決まっているけれど、

束の間の安らぎを九度山での暮らしの中で、感じていたのではないかと。


息子との険悪な感じも解消したのですし。


そんな時に、あの編み笠の武士は何を伝えに来たのか?


宇喜多さんということは豊臣方?

いったい誰が使わした者なのか?

まさか、蕎麦がき買いに来たわけではないだろうし…?

また来週見ましょ♪


 

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真田丸船賃六文波枕 十八

2016-09-19 18:33:20 | 真田丸

 

慶長五年九月十五日(西暦1600年10月21日)

 

関ヶ原の戦いは東軍家康の勝利。

 

西軍石田三成も大谷刑部も亡くなってしまいましたね。 

 

天下分け目の合戦、その前に家康は用意周到さを見せます。

 

「準備力」 これが勝利に導いたとも言われています。

  

家康は味方を得るために、戦う前の3か月の間に書いた手紙の数が

 確認されているだけでも184通もあるそうです。

 

家康は筆まめな人だったんですね。

 

あの宴会に誘ったら沢山の大名達が集まってくれたので

 

『イケるかも。』

 

と天下統一を思い描き、ほくそ笑んだあの頃、書いてたんですね~

 

内容は領土は安堵するよ♪ といった具合で、ま、買収?

 

三成も味方を増やそうと書いてはいたのですが、文章力の問題?

 

いや、なんと言っても家康の豊臣政権での位は五大老。

 

悲しいかな三成は五奉行、下っ端です。

 

説得力にも差が出ますよね。

 

それに、見ていると三成は正論とはいえ、ガンガン相手に向かうところがあるし、

 

イラッとくるところがありますよね。

 

家康は要領よく,ヌラリクラリと時局を抜けて行きました。

 

ま、それも憎たらしいですけど。

 

 

 

 

各大名の布陣を示すのにこの様な地図がよく出てきますが、

これは、「シブサワ・コウ」という「信長の野望」の

生みの親である方が真田丸に出て来る3D地図の監修をされています。

 

「鳥瞰図」 というのですか? 

 

大軍がドオ~っと進んで行きますもん。

 

ゲームはしませんが、これはおもしろい。

 

鳥瞰図ってどうして書くのでしょうか。

レオナルドダビンチなんかも書いているといいますから、

どうやって書いたんでしょうか。

 

 

話が反れましたが、関ヶ原の戦いで真田家に出された御沙汰は、

 

真田家嫡男、信幸には真田の人々との行き来断絶を言い渡され、

父昌幸の「幸」を名前に用いないようにとも。

 

それで「真田信之」となったんでしたか!

 

「ユキ」という音の響きだけはなくさないという固い意志を示したのでしたね。

 

 

その信之に母薫が久々に会って泣きすがる場面がありましたが、

ドラマ見ていて、胸に詰まるものがありました。

薫を演じる女優さんのこの頃の立場を思うと…

息子よ、どうする。

 

 

 

ここずっと信幸の大泉洋さん、カッコイイじゃないですか。

テキトー感、封印ですね。

 

 

砥石城で、信之と信繫が相対する時がありましたが、

信繫は敵方の家来をも切ることなく…

 

身代わりとなったするめとそのお皿や如何に。

 

こうして、砥石城は信之が陣取り、信繫はさっさと退散、

合いまみえる事を避けたのでした。

 

この時、信繫の家来というか親友というか、矢沢三十郎は信之に付くことなり、

信繫と悲しい別れをしなければならなかったのです。

 

 

 

第二次上田合戦から関ヶ原の戦いへ、目まぐるしく変わる情勢を

いち早く、正確に伝えたのは

猿飛佐助でした。

 

常に忠実に仕え、暗躍した忍びの者

表に出ることは出来ないが、自分のするべきことを全うしてきた

 

走、投、守、共に優れた正に裏のMVPです

 

この先も真田のために、身を尽くしていくのと思います。

 

佐助さんも見つめて行きたい人物です。 

 

 

 

真田昌幸、野望の人

でも、老いては子に従えという事も…

本人はもう一つ、大博打を打ちたかったのでしょうが…

 

 

 

その真田にじらされ怒り心頭の徳川秀忠、まだ本多正信の手の上でコロコロか…

 

 

大谷刑部、真の武士でした 

 

 

 豊臣のためだけに生きてきた忠義の人、石田三成

 

こんなこと言うのも何なんですが、山本耕史さんは

新撰組の「土方歳三」のイメージもあるんです。

 

あの、『待たせたな』です…

 

 

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