kohは今日も元気です

思うようにブログアップが出来ませんが、俳句のこと、テレビ番組のこと等、日常をぼちぼち書いていきます。

青天を衝け~ 第33回~第34回

2021-11-08 17:31:45 | 青天を衝け


第33回  論語と算盤

 If  you  open  Pandora`s  box


第一国立銀行が破綻するかもしれない

栄一の選択はどうだったのでしょうか

小野を説き伏せ、貸し付けに対する担保を差し出させ

政府より先に担保を抑えた栄一

合本の銀行も、小野組の犠牲のもと、持ちこたえた

三井銀行は優遇されながら残った

ここで、栄一は大蔵省に洗いざらい調べるよう願い出た

大隈さんの評価

*71万円の抵当が回収できなかったが、

損失は低く抑えられた

*大口貸し付けが、三井組に偏っているのは

不健全であっとであ~る

よって、三井に対する特権はく奪

渋沢栄一は、総監職を降ろされるが頭取となった


栄一と大隈さんは一番、よく揉めている風ですが

な~んとなくほんわかとして和むのであ~るのです

栄一のことを、認めておられる


その場にいた銀行経営の指導者ですか

アラン・シャンドさんに、

銀行は貸すこと、利益を出すこと、それだけではない

銀行はまだ子供、大事に育てなさい

と、言葉をかけられていました、温かいお言葉です

栄一は、好かれやすい人だったのかな



一件落着かと、思うも束の間でした

今度は、蚕卵紙に問題が起きました

貿易のバランスが崩れて来たらしい

金が換金され円安

金や綿織物の輸入が増え、金銀が外国に流れている

まあ、こんなややこしい話、よく分からない私ですが

楽しんで見ています

国の大久保利通が、とうとう民の栄一に頼み込んだ

「国を助けると思って、味方になってくれ」

この言葉、栄一には承服出来たようで

そのための資金をもらうことで、やってみることになった

おかしれえ、だそうですよ栄一さんは

で、

あれあれ、荒療治に出ました


外国が、蚕卵紙を買い控えている

ならば、こちらは逆に売り控える

売れずに困っている蚕卵紙を相場の4倍の値で買い上げた

そのためでしたか、国に出させた8万5千円

それだけではない、

外国商人の買い控えが止むまで蚕卵紙を燃やし続けた

更に、

この時代として新しい発想かなと思いました

それは、

「世論を味方に付ける」

その方法は新聞社に取材を依頼した

発表された記事とは

”国の蚕卵紙は貿易上最も大事な品である
その衰退を挽回し、価値を保たねばならない
そのために停滞の蚕卵紙を一気に焼き捨て、
今後の禍根を発つ!”

記事は世に広まり、外国商人は慌てふためいた


これを「横浜焼き討ち」と喜作は称した


栄一も喜作も、昔とは違う

論語を心の拠りどころとしたはずの武士も

今は刀の代わりに算盤、ひいては、お金…


のちに私立の三井銀行を開業した三野村さんが言っていた

「開けてはならない扉をあけたしまったかも…」





*****************************



第34回 栄一と伝説の商人

Women’s Empowerment


岩崎弥太郎、濃いですね

ドラマの副題の伝説の商人とは誰でしょね




明治十年ころ、三菱商会会頭の岩崎弥太郎は
軍需景気を独り占めしてるように、羽振りが良かった
本人が言ってるのですしそうだったのでしょうね



久しぶりの家康さん登場
「安政の五か国会議」これがネックになって
まだまだ日本は一等国には程遠い、と仰る

徳川のせいなのか?
という質問には、お茶を濁してまた、来週


商人が手を組み、力を出す所、「東京商法会議所」を
栄一が発足させた


子供の頃、私の父が民商と呼ぶ組合に入っていました
個人企業でしたので、税金対策や色々なこと
学んでいたのでしょうね(以前にもブログに書きましたが)


私がレストランで働いていた頃、近くに施設があったのか
月一度、中小企業民主商工会の会議に出席の方々が
ランチタイムに、どどどどっと、押し寄せ
バタバタ忙しかったのを覚えています
店長は、その時特別のシフトを決めました
一気に、大ぜいの来客の食事を
短い休憩時間内に食べて頂けるようにと
皆さん、休憩は一時間くらいだったと思います
それはそれは、戦争でした
懐かしい思い出です



栄一と岩崎弥太郎が、お茶屋さんに一席設けたが
どうも、違う
岩崎の考えは自分の考えと違う
もうここで、栄一は岩崎は自分の求める仲間にはならないと
思ったと思う
そのお茶屋さんで偶然会った平岡円四郎の妻やすさんが別れ際に

「あの人のためにもいいようにしておくれね」

あの人
「おめえはおめえのままで生き抜け、必ず」

そうそう、平岡円四郎さん、言ってましたね
最期の言葉になってしまった…

栄一の心はあの頃にリセットされたような



「東京養育院」
明治5 (1872) 年に明治政府が維新の混乱による困窮者救済のため
養育院掛を設け老幼 240人を収容したのが始り
日本で最も古い社会事業施設の1つで
次第に施設の専門化が行われていった


初代から50年間、院長は渋沢栄一が務めた
明治、大正を通じ一貫して施設の基礎づくりに大きな役割を果した


その養育院に、妻の千代を連れて行った
本人の希望だった
子供達の暗さ、寂しさ、何かをじっと我慢している
千代はそれをすぐさま感じ取り、
その後、娘や一緒に暮らす愛人のくにと共に
子供達に会いに行った
千代さんはほんとに偉いなあ~💗


更に、日本に米国グラント将軍の訪問があるという事から
栄一は、民間も政府と共にもてなすべきと
その役目を千代や娘に頼んだ
ちょっとためらう娘をよそに、千代は「がんばんべ!」
大事な仕事を頂いたと高揚していた


ユリシーズ・グラント将軍は
どんな方
米国南北戦争の英雄(北軍)
元大統領として初めての来日
浜離宮にて明治天皇に謁見
増上寺や上野公園に植樹をしている


次回、華やかな日本の大イベント見せて頂けるのですね


”ざん切り頭を叩いてみれば 文明開化の音がする”


そんなフレーズを学校で習った気がします




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青天を衝け~abacus

2021-10-31 12:58:45 | 青天を衝け


第32回 栄一、銀行を作る

「 徳川を倒してまで
作りたかった新しい世とは
いったい何だったんだ 」

by家康


今日10月31日は、衆議院議員選挙の日ですね

自由民主党を倒したとして、

国民の望む日本にしてくれる党はあるのだろうか…



明治維新から150年余り経った今も、同じです

ま、明治維新後の改革は、大きな大きな改革ではありました


税を集める
租税の改正貨幣をまとめる
諸藩の測量
駅逓(郵便のこと)
戸籍
電信
鉄道など

今と比べれば、すべて一からですものね

すごいと思っています



理想の新政府を作ると、がんばった栄一でしたが

あっさり新政府に辞表提出

「官から民へ」

それにしても、なんと変わり身の早い栄一でしょう!

イタリアから帰国の喜作も新政府にいないことに

びっくり

その喜作はイタリアで絹をしっかり学んできたようで

横浜で絹に関わる仕事をすると決めていた

喜作も新政府から退いた


ところで、

西の五代、東の渋沢

と言われているとか

五代友厚は、朝ドラ「マッサン」で耳にし

渋沢栄一は、ただ今「青天を衝け」にて学習中です

だから、知識はとんとありません、私(^-^;

五代さん、栄一にこんなこと言ってましたね


” 政府は厄介な獣の集まりじゃったが、
商いの方は正に化け物、
魑魅魍魎がばっこしておる ”


” 大阪を基盤に、鉱山を商いするカンパニーを
起こしもした ”


栄一は、日本初の銀行「第一国立銀行」を起こし

総監となっている(三井と小野の頭取がまとまらないので

総監着任だそうですが)

国立銀行の紙幣発行の権利は持っていても、民間銀行なのですね

ま、「民」になった渋沢栄一が起こしたのですから

ややこしい名前です

だから今の日本銀行の元の銀行ではない、のですよね?


栄一は銀行に指導者として外人さんを招き入れている

大福帳から簿記へ、売掛買掛、昔やりましたね~

ここからスタートだったんですね

画面に映った算盤が上の段に二つ玉があった

下段は、五つか六つか分かりませんでしたが

どうやって繰り上げするんだろう



栄一のお母さんが、だいぶ弱って来られた

そんなお母さんの枕もとで栄一は

自分の銀行で発行したお札を見せていた

お母さんには、それよりも栄一の世の渡り方のほうが心配

近くにいるものを大切に

自分ひとりでなく、みんながうれしいのが大事

幼い頃から何にも変わらないお母さんの言葉に

ぐっときました

そしてしばらくして、お母さんは亡くなられた



その頃の新政府の中心人物は、大久保利通、岩倉具視

佐賀の乱が起きたり、岩倉具視が襲われたり

新政府、なかなか落ち着きませんね

江戸時代から武士は商人を利用していた

財布代わりと言ってもいい

そのやり方も次第に三井や小野が思うように動かなくなっていた

そこで、大久保は新しく白羽の矢を立てた商人が

三菱商会創立者 岩崎弥太郎

五代さんが商人は、魑魅魍魎

と言っていましたが…



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青天を衝け~metamorphose

2021-10-23 20:18:47 | 青天を衝け

第31回  最後の変身

あ~あ、栄一

そんな一面もあったのですか~

千代さんは、ぐっとこらえてあの優しい言葉

いい奥さまですが、ひとつ屋根の下で

暮らすのですか? 

まあ、堂々と打ち明けた栄一も正直と言えばそうなのかも



話替えます

2年半ぶりに成一郎(喜作)が牢より釈放され

栄一の屋敷に来ました

ふたりは真の友達という関係は崩れなかった

でも、命からがら逃げたものの牢に入れられ

辛酸を舐め尽した喜作です

栄一のおかげで牢より出られたけれども、

悔しい承服しきれない思いがあって当たり前だと思います


それでも、喜作も大蔵省で働けてよかった

そして、富岡製糸場に出向くこととなり

尊敬する惇忠に会えた

それは、

昔の「尊王攘夷」に対するわだかまりも捨て

製糸場の運営に力を注いでいる

師と仰ぎ続けた惇忠の姿だった


喜作に向上心が湧いて来てイタリアに勉強に行くことになった

良かったです♪

やっぱり、人間は生きててなんぼ。



さて、栄一は、新政府改善を目指し

大蔵省で様々な計画を打ち出していった

イギリスで経験した「バンク」

合本を軸につくった

「国立銀行」という名前も出来た


だが、商人と渡り合うその折に、気付いた

これでは、昔のお侍に栄一達、農業や商業に携わる者が

武士階級より押さえつけられていたことの繰り返しだと

自分の目指す、自分一人でなく皆がよくなることにはなってないと


「官」から「民」へ

移ろうと思った

千代さんに「大蔵省をやめようと思う」 と打ち明けると

千代さんは、いつも栄一にすっと従う優しい人ですね

長女、次女、そのあとに長男を出産されてよかったです

[過ちを改めざる これを過ちという]

栄一は、仕事のことだけでなくプライベートの来し方にも

気持ちを及ばせて千代さんに、そう話したのかな



さて、驚いたのが西郷さんの渋沢邸訪問でした

そうかあ~西郷さんは下駄ばきが常だったのですね

栄一とお酒を酌み交わしていました

お酒のあてには何が用意されていたのかなあ

以前、豚鍋を食べていたのは、何処でしたやろ?


栄一、緊張もなさそうに懐かしい話をしていました

平岡円四郎のこと、徳川慶喜のこと

「昔はよかった…自分が良い国に出来ると思ってた」 

と西郷さんは、何となく寂し気で、弱気な様子でした

「慶喜は、化け物だ」

西郷さんは、慶喜を高く買っておられたのですね

正直、江戸幕府を終えたとか、

戦のさ中にひとり江戸へ逃げ帰った

そんな将軍さんで、あかんたれみたいな評価しか私は

持っていなかったのですが、これは誤解ですね

栄一も

「新しい日本をつくるんだと思っていたが

今は、高い所からもの言うだけだ」

と今の自分の評価は反省だった


こうして、栄一は最後の変身を遂げるのでしょうか

それとも、まだまだ繭の中なのか

最後の脱皮がやって来るのでしょうか

いずれにしても、今までの真っ直ぐ、正直者、頑固

それだけではない、寄り道も迷い道もあったのが

渋沢栄一

だそうです、知りませんが(/ω\)


おかえりモネ、青天を衝け、共に終わりに近づいて来て

淋しいです

しっかり見届けなくては。



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青天を衝け~8man

2021-10-03 18:01:33 | 青天を衝け


第28回 篤太夫と八百万の神

「八」


”八百万の神のひと柱であ~る”





栄一は、この言葉にやられてしまいました




あの栄一を言い負かしたのは誰かと思えば

大隈重信

名前はよく聞きます

元佐賀藩士で、新政府では長崎に赴任から始まったようです

その後大蔵省の次官として

新橋・横浜間の鉄道開通を進める

電信(電報)の仕組みを整備する

と、日本の近代化を進めたのが大隈重信




1881年、イギリスの議院内閣制を進めようとして

岩倉具視や伊藤博文らと対立し官僚辞職しますが、

翌年、イギリスの議会をモデルに立憲改進党を作ります

1898年に総理大臣となり、日本初の政党内閣を誕生

人材を育てるための東京専門学校もつくる(後の早稲田大学)


栄一と同じで弁の立つ人だったようで

栄一は初対面で言い負けたとがっかりした顔で家に帰って来て


「今までお蚕様のように何度も脱皮して、
よく生き残って下さいました」

優しい千代さん、まるでお蚕様を包む真っ白な繭のようですね

千代さんに慰められるという、結果でした



ま、負けたと言っても、新政府で改革に参加するのですし

負けたとも言えないですけど


ところで「八」

この数字は、よくことわざや熟語に使われています

形が、末広がりで縁起のいい文字と聞いたことはあります

例えば

口八丁手八丁
八方ふさがり
八面六臂
一か八か
七転び八起き
八方美人
やけのやん八
四苦八苦

もっともっとありそうですが、破れかぶれ的な感じも…(^-^;

あ、大隈重信の幼名、「八太郎」 だそうですよ♪

大隈重信さんってどんな方だったのか

分り易いのがありました♪

大隈五訓




一、怒るな

ニ、愚痴をこぼすな

三、過去を頼るな

四、望を将来に置け

五、人のために善を為せ

ポジティブだったのですね~

今回は、他にも注目したい人がありました



「川村恵十郎」



以前から、目つき鋭く強面、と気になっていましたが

結論として、大変優秀な積極的な人だった


1836年 武蔵国の小仏関所番・川村正朝の長男 として生まれる

20歳の頃、父のあとを継ぎ小仏関所番見習いと なる

28歳の頃、平岡円四郎に引き合わされる

幕府と朝廷の関係について慶喜に宛てた建白書を平岡に手渡した 

公武合体の策のための発言権、イコール各藩の軍事力である

農民の中から見込みのある者を家臣として登用し兵力を増すこと 


川村が唱えたこの事を川村が指揮すること となった

江戸で出会って渋沢栄一と喜作は選ばれた
 


一橋慶喜と諸藩主たちによって開かれた参預会議で、

諸藩主たちは攘夷の決行は無理と主張

慶喜は 断固として鎖港すると主張


これに不満を持った水戸藩士は平岡円四郎と川村恵十郎を襲い、

平岡は殺される

川村は、何とか討ち返したが眉間の傷は一生残った

明治になり、川村が禄を受け取る列に並んでいる姿は

何ともやるせないものでしたね…


戊辰戦争から静岡に謹慎になるまで、慶喜に仕えた

明治以降、新政府に出仕

静岡藩の屋敷では、栄一から仕事を習い、

栄一が東京の皇城に移ることに決まった時は

もう、我々のコンパニーだ、栄一が居なくなっても

何を困ることがあるものか



と、仲間の意気を上げた

栄一も嬉しそうでしたね


1873年出仕~1893年辞任するまでには

大蔵卿の大久保利通に仕えその後宮内省や内閣の役人に

その後亡くなるまで、東照宮の禰宜として務め

旧幕府への忠誠心を示したようでした

歴史ドラマにも、教科書にも出てこない川村でしたが

見事な一生を送られたのですね

一橋慶喜が、平岡円四郎を見つけ

平岡円四郎が、川村恵十郎を見つけ

川村恵十郎が栄一と喜作を見つけ

青天を衝く栄一が生まれた



「東京へ行ったらどうだ

これが最後の命だ

渋沢、この先は日本のために尽くせ

大儀であった 息災を祈る」

栄一は、慶喜の側を離れることとなった



さて、この後栄一や喜作は

どの様に自分の片腕となってくれる人を見つけ、

育てていくのでしょうか

渋沢栄一の一生は知らないことばかりで

期待が膨らみます






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青天を衝け~Money comes and goes.

2021-09-22 22:58:45 | 青天を衝け


第27回  篤太夫、駿府で励む



明治元年(1868)

徳川の領地となった静岡に、徳川の家臣が続々と

それでも、江戸時代のことを思えば十六分の一の人数で、

多くが、フリーター状態だったと、

家康さんが仰ってました

懐事情も火の車のようで、篤太夫は徳川の重臣に

勘定奉行の役に就いてほしいと嘆願されていましたね


強く断る篤太夫でしたが、慶喜の計らいという事を聞き

水戸の昭武のところへは行かず、駿府に留まると決心しました


「勘定組頭にはならず、禄も受けない
百姓の矜持として、
百姓または商いをして穏かに駿府で過ごす」


と言った篤太夫の言葉を慶喜に伝えますと、

やはり可笑しろき奴…と、慶喜は微笑んだ

上様もあんなお顔をされるとは、と

笑顔が珍しかったようです

慶喜の日々は暗い顔ばかりの苦しい日の連続だったのですね


篤太夫は、きちんとした仕事をする人なのですね

このあと昭武に、

水戸に行けない理由とお詫びの文を書きました

昭武は、兄慶喜と篤太夫の関係を

”スぺシアル”と言っている

「自分に出来ることもございましょう、前を向かねば

パリで過ごした民にも恥じぬよう」


今なら中学生くらい? 

反抗期の子も居れば、親に頼り過ぎる子も居る




さて、篤太夫は藩の財政を何とかしなければと考えた

パリの銀行員のロッシュに教えてもらった

<キャピタル・ソシアル>

この実現に動き出しました

新政府から諸藩の財政を救うためという名目で

太政官札を渡していた

入金 五十三万両

支出 二十八万両

残高 二十五万両

家臣達が蔵にあるという残りの太政官札利用法を

集まった武士、商人に話した

「これは借金に過ぎず、貰えるお金ではないですよ

藩の別会計として、自分が残りを預かり運用する」


(商人からお金を集める + 太政官札)これを元に

(コンパニー=合本の商い)を始める

大勢から少しずつでも集めれば多額のお金となる

商いを軌道に乗せ、拝借金を返す、更に

初めに出金してくれた者に配当金を回す


簡単には理解してもらえず、説得を続けた

必ずお金は返ってきます、と言われても…

悪徳商法なのかも、と思わなくもないです

商人の物分かりの良い方がまず、協力しますと

幕臣だった川村恵十郎も理解する



篤太夫は「商法会所(銀行+商社)」をつくった

これが、一番最初に渋沢栄一が立ち上げた機関だったのでしょうか

パリで見聞きした知識の使いどころですね


太政官札を正金に替えるのに、

三井組事務所であの番頭さんに会った

番頭さんは、数回会っただけの篤太夫を警戒をしているようです

手強い商売敵になるぞと思ったのでしょう

正金に交換するにも、渋ってましたね

「食えねえ親爺だ」 なんて言ってました、篤太夫殿


日本に帰って来て、重要な人と次々会ってます

市場では、五代友厚に会いました

五代は、篤太夫に気付いてました

篤太夫は、名前を聞くまで分かりません

五代と気付くなりパリで借款が無くなったことを思い出した

あなたのせいよと追いかけたが見失ってしまって…

そうでしたね、パリの旅費が乏しくなり昭武の仮住まいも

ランクを落としたり大変でした

パリへ一緒に行った人の中に高松凌雲というお医者さんが

おられました

敵味方なく治療をしている外国の病院の人々に驚いていましたが

新政府 対 幕府の戦いの中ではその診方がなされてました



幕府軍は戦いに負けたのに、箱館はまだ戦が続いている

もう、敗戦が見えたという土方歳三は

最期を迎えるためと、戦場へ向かった

そんなに死に急ぐなんて

そのくせ成一郎には、逃げるようにと伝えていた

助かるのだろうか…

数日後、箱館の戦は終わった…



あの強面のお侍、川村恵十郎

この方の思いも深かった…

平岡円四郎の命も守れず、戦でも死にぞこない、

徳川に捧げられなかった命を持て余し、ここに来たが

ただ、禄がほしくて流れて来たのではない

徳川のために何かできぬかと…


静かにそろばんを弾く姿が何とも寂しい

成一郎の安否が分からないことについても、

忠義を貫いたのなら、本望だろうと

自分に置き換えて呟いたのかもしれない

武士という者のなくなった時代に武士だった人達の日々



コロナと隣り合わせの日常を受け入れるしかない日々




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青天を衝け~ In the heart of YOSHINOBU

2021-09-19 13:00:24 | 青天を衝け


第26回  篤太夫、再会する


そろそろ篤太夫が血洗島に帰ってくるはずですね


桑畑を、荒っぽくかき分けかき分けているのが不自然です

いったい何をしているのかと思いました

ふと視線を先の方にやると

村のシンボルツリーであるあの大きな樹の下に長七郎が居て

話しかけてきた

心を病んでいた長七郎でなく以前の快活な長七郎だった

洋行から帰って来て、仲間の動向をあちこちから聞いた篤太夫は

まるで、浦島太郎のような気持になっていたのでしょうか

長七郎が言った

「悲憤慷慨していた世は崩れたぞ
崩しっぱなしでどうする
この先がお前の励み時だぜ」



場面が変わって、一面菜の花畑で

父の市郎右衛門と娘のうたらしき女の子が自分を呼んでいる

妻の千代も立っている

迎えに出ていたのだ

渋沢家の皆とは、かれこれ6年?

会ってなかったのですよね

赤ちゃんだったうたも、利発そうな少女に育ちました

初めて会う父に、たじろぎながらも

すぐに打ち解けてくれて、よかったですね篤太夫殿


親戚の方々も、篤太夫の帰還を祝おうと集まってくれました

そんな中で、妹のていは平九郎の亡くなったことで

「兄さんが平九郎を見立て養子になんかしなければ
今までのように村で暮らしていた」

と怒りをぶっつけたが
父がそれは栄一もよく分ってると、ていをなだめてくれた

篤太夫は、皆にせがまれるまま、パリなどでのことを

面白おかしく披露した

この頃には、ていちゃんの笑顔もみれましたね、よかった♪

お祝いの席も終え、落ち着くと

妻の千代は、弟の平九郎の死んだのは自分のせいだと

泣きながら栄一に言った

すると、違う俺のせいだと栄一も心の内を話した



平九郎のお墓は、あの大きな樹の根元に立っていた

栄一と千代はお参りをした

嬉しい時も悲しい時も、この樹に話していたのでしょうね

この樹なんの木?

ロケ地深谷の田園地帯にほんとにある樹なのでしょうね?

見事な樹 何年生き続けてるんだろう

一度は、この樹に触れてみたいなあ~




まだ、戦は続いていた

成一郎の妻よしも不安な毎日を送っているはず
成一郎は箱館の五稜郭で土方歳三らと共に戦っていることを
よしに伝えた

夫が戦に行っている妻や、息子の両親は皆
もう生きてはかえって来ないだろうと覚悟をしている

第二次世界大戦の時も同じですね
未だに生死さえ分からず待っている方も…
過去の話ではない



栄一は惇忠の家に挨拶に行った

何故か顔を背け立ち去ろうとする惇忠に篤太夫は困惑したが

惇忠は、自分だけがおめおめと生きて帰って来たことで

皆に会わす顔がないと苦しんでいたのだ


『 生き残った者には成すべき定めがある 』

樹の下で長七郎の言った同じことを、栄一は惇忠に言った

栄一は、パリで分かったという

『 銃や剣を手に、戦をするのじゃない
畑を耕し、藍を売り、皆で働いて励むのが俺の戦い方だった
この恥を胸に刻み、今一度、前に進みたい
生きてる限り! 』


『悲憤慷慨していた世は崩れたぞ
崩しっぱなしでどうする
この先が、お前の励み時だぜ!』

樹の下の出来事は、どうやら夢だったようですね
長七郎の言ったことは、今、栄一が考えていること

夢ってそういうもんなんでしょうね😴 

栄一の心は整理がついたようです



「 箱館の軍に加わる気はない
フランスでの知識を持って新政府で働くことも
勧められたが断った

駿府で謹慎の先の上様に挨拶をしてから
自身の道を決める 」

それを聞き、栄一の父、市郎右衛門は喜んだ

「 道理を踏み外さず、誠を貫いてくれた
おかげで、お前の父親だと胸を張って言える 」

栄一は父に借りた百両があった
それを返すというか、おみやげというか
父に差し出した

すると父は、それを右から左へ!

千代に、6年間よくやってくれたお礼にとすべて渡した

母は、
「淋しかったんベ
不服も言わねえで、よく耐えてくれたねえ」

両親は、そうすることで、栄一の留守の間の千代のすべてを

栄一に報告しました

千代さん、ええ人♪

ご両親もええ人♪

篤太夫殿、奥様と離れたままの6年間
お分かりいただけましたでしょうか
今度こそと言った約束、守れますように


さてさて~、慶喜との再会は

水戸で謹慎をしていた慶喜ですが

静岡が徳川宗家の領地となったことで宝台院に移りますが
謹慎は続いています

かつての幕臣たちも、移ってきていました

篤太夫は、宝台院に慶喜を訪ねます
篤太夫の目には今までと比べ、何と質素な住まいと心が痛みました
現われた慶喜の着物も地味なものです

まず篤太夫は、なぜこのようなことになってしまわれたか…
と、その問いに、慶喜は

過ぎ去ったことだ
昭武のパリでの様子が聞けるから出向いた、と

維新のことは、避けました
慶喜は言いたくないことが沢山あったのですね


篤太夫は気持ちを切り替え、パリなどでの
昭武の様子を身振り手振りも可笑しく話し始めました

慶喜は、昭武の様子を想像し嬉しかったようで
柔らかい笑みが何度もこぼれていましたね

慶喜は

「渋沢よ、万里の異国にあって、さぞ狂おしく骨を折った事であろう
この度、昭武が障りなく帰国できたのも
ひとえにそなたのおかげだ、礼を申す」

丁寧にお辞儀をし、慶喜は部屋を出た

篤太夫は

「上様、何も申し上げますまい
しかし、どんなにご無念だったことでございましょう」

立ち止まり聞いていた慶喜ですが、無言で行ってしまいました


慶喜は、大政奉還から明治維新、江戸へ逃げ帰った事、謹慎処分…
様々な気持ちを心の奥に詰め込んで、口外はしないと
決心したのでしょうね


<英雄たちの選択>の番組の中だったかなあ?
後に、慶喜は取り調べを受けた時、
確信を衝くような質問の時、
「忘れた」
を何度も言ったとか

決心の固い方です

昭武のサポート役に篤太夫を選び留学させたことは
慶喜にとって、ほっと笑みを浮かべ話せる僅かな事柄の
ひとつだったと思います

渋沢栄一にとっても、昭武にとってもいい旅でしたね

こんな機会を与えてくれた慶喜に、栄一はずっと
感謝の気持ちを持っていたことでしょうね

いよいよ、新しい時代の渋沢栄一の活躍ですね、楽しみです♪
新しい生き方には、どんな人たちが関わってくるのか

栄一は、何を考え何を選択するのか、

その懐の中に、分け入ってみようかしらん



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青天を衝け~return home

2021-09-11 13:40:38 | 青天を衝け



オリンピックとパラリンピックの余韻は今、如何ほどでしょうか



明日は久しぶりに「青天を衝け」の本放送ですね


オリンピック開催が  7月23日~8月8日でした

そして

☆第24回青天を衝けの放送  8月15日

☆第25回の放送  8月22日

パラリンピック開催 8月24日~9月5日ということでした



第25回は…

大丈夫です、録画してあります♪



第25回 篤太夫、帰国する

冒頭、家康さん、久しぶりの登場でした

徳川家康、徳川の行く末を心配し

出来る限りの存続を願って様々な決まり事を残されました

末裔をこよなく愛する、大々々爺ちゃんです


1868年という日本史上屈指の激動の年に

昭武や篤太夫の面々が日本に帰って来ました

日本の現状や知人の今を聞き、篤太夫は

驚き、悲しみ、腹立たしさでいっぱいだったでしょう


あの時代の船でよくぞまあ大海を漕ぎ進め無事に帰って来れた

と思いましたが、その船の映像が出た時

あれ、けっこうしっかりした船やないの!

とある意味拍子抜けしました

帆を上げ、煙突からはモクモク灰色の煙が出てます

ハイブリッド・シップ⁉

すごい!外観もとても美しいです💙

フランスの旗がハタハタと


民部公子、昭武は篤太夫に傍にいてほしいと言いましたが

まずは、洋行の収支など残務整理のため

篤太夫は横浜に残り、昭武は品川の宿へ

篤太夫は、昭武に再会を約束しつつ

「ご息災を」


篤太夫は、新政府からの身の回り検査を強いられました

残務整理にかかった日々は数か月に及びます


その頃、慶喜が江戸で篤姫と対面しましたが

ふたりはどのような会話だったのでしょうか

今人気の若い女優さんが見事に篤姫さんになっておられます

その篤姫さまのご尊顔を拝しましたところ、

なんと険しい!姫はお怒りですよ~慶喜さま

軍服にちょんまげの出で立ちで


「朝廷に逆らう気はございません」


何しろ新政府は錦の御旗を掲げています

それに敵対すれば、慶喜は朝敵とされるのですから退いたのです

篤姫は、慶喜が江戸に帰ったことを責めた

「武士の頭領なら潔くおはらをお召なされませ
徳川断絶なら、わらわも死を選ぶ」

それと静寛院宮(和宮)も徳川の人間として事に当たるとのこと

慶喜さん、これは嬉しいことではないでしょうか

徳川の将軍様は、代々モテモテだったのかな

家康さん、このところもチェック済だったのですかしらん?

慶喜の奥様の美香君の気持ちはどうだったのか?


以前の大河ドラマ「篤姫」では、薩摩の徳川に対する態度に怒り、
西郷たちの薩摩に戻るようにとの誘いに応じず
生涯、徳川の人間として生きる、と誓っておられた
確か、大奥崩壊のあとのお女中の皆さんの身の振り方も世話をし、
自分の持ち物の中から選び、お女中それぞれに持たせたと
ありました

篤姫さんの残っている写真を見ると
怖そうなお顔ですが、
心はお優しい方だったのかもしれませんね

優しさを備え持つ切れ者だったのか


慶喜は、水戸の時のようにまたもや謹慎となった

上野寛永寺に籠りました

徳川の重臣では、小栗上野介は斬首

川路聖謨は自宅でピストル自殺

それからそれから、

成一郎は、彰義隊を解散し上様の無念を果たすと

新たに「振武軍」結成したが新政府軍に敗北

その時平九郎は戦死、まさか平九郎が?

いちばん戦とは縁遠いと思っていたのですが…

惇忠と成一郎は辛うじて逃げ延びたが

手負いの体で成一郎は箱館へ向かった

その直前、成一郎は土方歳三と会っていた

土方の考え方は、凄かった

死ぬために戦う、そう取れるようでもあった

以前、京で篤太夫も土方と会っていた

意気投合したあと、また逢おうと約束していたが
もう会えなかったのでしょうね…

激戦地となった、あの五稜郭
一度行ってみたいと思います
(CDジャケットの撮影場所にもなった、あの北海道出身の方の)


周りの者は、参戦する中、

篤太夫は、はっきり言いましたね、きついほどでした

「俺は行かねえ、烏合の衆が戦っても勝てるはずがない」

ここが篤太夫の凄さなのでしょうね

参戦もこの選択も厳しいなあ~(*_*;


横浜で篤太夫が残務整理に追われている時のこと

三井組の番頭さん三野村利左衛門に会いました

篤太夫は、新政府の役人の持ってる物に目を奪われた

「太政官札」というものらしい(元祖お札だったのかな)

三野村利左衛門は、それは当てにならない代物で

”誠の戦はこれから、わしら商人の戦いだ”

と、にたりと笑ったが…



篤太夫の生まれ変わった姿での活躍が始まりそうですが

その前に、慶喜との再会

それを早く見たい

気にかかります♪



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青天を衝け~Capital social

2021-08-20 18:12:43 | 青天を衝け

第24回  パリの御一新


後半が始まりました

振り返ってみると、栄一も大人になりましたね


「母っさま、ぎゅ~っとしとくれ」

と言ってたあの栄一が

平岡円四郎に認められ、慶喜に認められ

今は、昭武に頼られていますね

幕末から明治初期

パリ万博へ、昭武に随行して、

その続きに留学のために各地を周った人って

この当時きっと数少ないですよね

こういう運命を引き寄せた栄一は

やっぱり、稀なる人なんでしょうね

もちろん努力を積んだことは間違いないですが



とにかく、訪欧の時期、日本もまた凄いことになっていた

篤太夫のところへは、どうやら1~2か月遅れで

日本の情勢を書いた手紙が届くようですが

どの手紙も、唖然とするような内容でしたね

 慶応3年1月11日~3月6日  横浜出港~船中

慶応3年3月7日  パリに到着 

昭武一行、パリ万国博覧会を観る 

 慶応3年8月6日~11月22日  欧州各国に挨拶(篤太夫は行ったかな?)

慶応3年11月23日~慶応4年8月29日   昭武留学のお供

 慶応4年8月30日~明治元年11月3日    帰国の途につく


この間、手紙が届いている

1868.1月 慶喜より、政を帝に返上した、と

1868.2月 日本国より、大阪城へ抗議の兵が押し寄せた

他に、平九郎から、見立て養子になったと

惇忠から、長七郎が牢を出たが投獄中の辛さからか元気なしと

母は篤太夫の文や送られた写真を喜んでいると

千代は、お前さまは変わった、
異国人と同じ姿が、あさましい、見るのもつらいと
  

千代さん、ムッシュ・シブサワはお嫌いですか?


3月に届いた手紙は、1月の事が書かれていて、

鳥羽伏見の戦いで、
幕府軍は新政府軍に負け、撤退
慶喜は、江戸へ帰った
逃げたことにより、徳川は朝敵とよばれる
江戸は攻められようとしている

それでも、慶喜が昭武に出した手紙には
日本に帰って来ず、留学を続けよと

結局半数のお供の者は帰国した

篤太夫の悩みの種は、滞在費の捻出だった

とにかくパリに来てずっと足りないようですね

銀行家 フロリ・ヘラルド

この方は、篤太夫にお金の増やし方を教えてくれた

ただ、”青天を衝け”の中で、単にお金儲けをする

というのではない

でもま、することは同じのようですけど…


旨くヘラルドさんは教えてくれました

Capital   social

志はよくても一人では出来ないことも
少しずつ多くの人から集めることにより実現する
同時に、貸したほうもそこの事業が旨くいけば
配当金がもらえる



子供の頃、母っ様が言ったのと同じだ

「自分だけでなくみんなが良くなるのがいいんだで」

これだ、探し求めてきたのは  ↑こっちの事です

どうやら、篤太夫は国債と、鉄道債を買って
いい配当金を受けてたようですね

やるやん(@^^)/~~

銀行家のフロリ・ヘラルド氏と固いきずなが出来たようですね


日本では水戸藩主徳川慶篤が亡くなり、昭武をその跡継ぎにと

知らせが来た

昭武はちょっと難色を示したようですけど

前駐日フランス公使のレオン・ロッシュは

日本より帰国し昭武と会い日本に変えるのは危険

と伝えたが、昭武の意思は固かった

”日本に帰ろう”

水戸藩主になると決めたのですね

篤太夫に、帰国してもそばに居てほしいと告げた

可愛い💙


頭脳明晰で、お上品で、素晴らしい民部公子さん

訪欧の旅で、凛々しくなられました

官職名 民部大輔の「民部」と貴い人の子息の意味の「公子」

ふたつを合わせ 「民部+公子」 だそうです

旅立ちの日、ヴィレットさんという仏人より

インモルテル(不滅)という花言葉の花束を
(和名 ムギワラギク)

貰っておられました

1868年8月30日 フランスを発つ

再び2か月ほどかかる長旅だったのでしょね

無事帰国良かったですね

水戸で蟄居だった慶喜にはやく会えますように

慶喜さん、元気出ますよきっと♪

そして、篤太夫

探し求めていたものがパリで見つかりました

さて、何から手掛けるのでしょうか

楽しみです😊 



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青天を衝け~imperial standard

2021-07-24 12:27:33 | 青天を衝け


第23回  篤太夫と最後の将軍


大政奉還、王政復古
日本史上、とても大きな変革が起きている時
篤太夫は、パリの空の下、一見楽しげに日々を送っている

そんな風にも見えますが、

書記、会計を預かり同行の人たちのお世話も担っていた
大変な役目だったのでしょうね

藍で培った商いの手腕がここで生きてきました


篤太夫は長い海外生活の中、血洗島に残した千代さんや娘さん
ご両親の事が気にかかり
手紙だけでなく、自分の写ったフォトガラフを
この時は、郵送?まだ飛脚?

家族はびっくり!

私の祖母(明治生まれ)写真を撮られるのが嫌いだったらしく
確かにカメラ目線のは1枚も見てません



パリに戻ります(^-^;

600万ドルの借款がだめになったのは、一大事ですね
でも何とか為替?をもらうことが出来た

日本は、大政奉還、王政復古と大きく変わっていった時
篤太夫たちは…


共にパリに来た一行の幾人かは帰国し、

民部公子、篤太夫その他の留学生は
(万博が終わって、立場は留学生となっていたとか)

刀を外し、髪を切りなさいと、フランスから言われる


”ます鏡こころを照らせ姿こそ変われどおなじ大和魂”

まるで、辞世の句のように号泣しながら詠い
切腹させられるかのような顔で髪切る人も居れば
篤太夫は、わくわく顔です

変わった事に遭遇するといつもわくわくの篤太夫

そして、フランスを立ち、スイス~ベルギーと渡った

いつの間にか篤太夫は、”異国は風通しよくて良い”
と感じていました

”フランスは役人も兵士も商人も皆、身分は平等
だから、自分の力を発揮する場所がある
そして、それぞれ国のために働く”

風通しのよさは、ここから来るんだなと考えました


血洗島では代官に、事あればお金を持ってくるよう
言われていましたものね
これでは働けばはたらくほど、やるせないです

フランスの銀行のオーナーのヘラルドさんと
そんなやり取りをしていました


ヘラルドさんが、

「日本はきっといい国になる」

と篤太夫に行ってくれたのは、母の教えの、

「みんなが嬉しいのがいちばんなんだよ」

の考え方をヘラルドさんが感じたからなのかも
(昔の近江商人の軸は ”三方良し” 同じかな)


一方、日本の慶喜は、側近の原市乃進が水戸の直参数名に
斬り込まれ亡くなった

平岡円四郎もそうだったし、

「なぜ、私の大事なものを次々奪う」

と悲しんだ

そんな中を、大きな出来事が待ったなしでやって来る
あれこれと思いを巡らせど、やっぱり


「こんな時、ひとりで考えなければならないのか…」


慶喜は円四郎や篤太夫がそばに居てくれたなら
と思ったのでしょうね

そうですよね、こんな時一緒に考えたり叱ってくれたり

ただただ、聞いてくれるだけもでいい…

そんな状況が、まだ飲み込めない…

かけがえのない人を失う
だれにもそんな時がありますもの

ましてや、日本のナンバーワンのお方だから
孤独は、深かった


京で、謹慎の身だった岩倉具視は
天子さまにお目通りゆるされ、何を言ったかというと

「五百年ぶりに御上による政をするにあたり
万事、岩倉にお任せください」 ですと

そして、錦の御旗を用意した岩倉、頭脳王か?

錦の御旗は、手強い!

山内容堂は、朝廷で政を固めるのはもっての外と反論

そんな中、慶喜への評価が良いのですね
意外な気もします

松平春嶽は慶喜が居ないのは、政がまわせない

西郷吉之助は慶喜に頭では勝てない

岩倉は慶喜はだめな人と思ってた、が違った

そんな見方をしていた


その頃江戸城二の丸に火を付けられた

なるほど、慶喜は聡明なのが分かりました

敵の罠を見抜きました

「焼き討ちは罠だ! 動いてはならぬ」

でも、遅かった…

幕府側は薩摩屋敷に火を放った

確かに、西郷が

「戦をしないというなら、するように仕向ける」

と豪語してましたね

慶喜は、その焼き討ちの意味を悟った

篤太夫、早く日本に帰って来て下さ~~い(⋈◍>◡<◍)。



**********

<錦の御旗>
2015.10.22の時代祭(於:平安神宮前)での写真です


最強の錦の御旗


旗を持つのは勤王隊


鼓笛隊

大政奉還、王政復古、明治維新と活躍した志士の写真も
残ってます(時代祭での)
もう、6年も時代祭を見てないとは…



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青天を衝け~Appartements à Paris

2021-07-13 19:14:21 | 青天を衝け


第22回  篤太夫、パリへ


慶喜が将軍となり、篤太夫は、天に見放されたか…

そんな気持ちだったところへ、パリ行の話を聞かされ

寝耳に水のようなことだったでしょうね

なんかドラマみたいに出来過ぎ?


あっという間に、

横浜~上海~香港~サイゴン~シンガポールの沖を通り過ぎ~

~セイロン~アデン~スエズ~地中海~パリ

スエズ運河はこの頃、建築も大詰めに来てたんですね

そんな55日間の長旅も終点、パリに上陸しました


篤太夫は、背中に戸棚のような旅の荷物を担いだまま

凱旋門の最上階から、パリを見晴るかす♪


先にホテルに荷物を置くという選択肢はなかったんですか

他のメンバーは、軽快な感じなのに?

誠にお疲れさまでした


ホテルは、パリグランドホテル

見るもの聞くもの初めての篤太夫は、高揚しっぱなしでした

そりゃそうですよね♪

パリの150年余り前の風景は

テレビで見る今のパリとは違って、当然かな(^-^;

(なるほど、万博会場跡地にエッフェル塔が今、立っているのですか)



まずは万博会場を下見に行くことになり

正式に決まっていた通訳はフランスのカション神父なのに

イギリスのシーボルトが早々と行動しています


イギリスとフランスは仲が悪そうで…

それよりもっと厄介なことが起きていました

日本の展示場に、「LIOU-KIOU」の看板

更に、〇に十の字の幟の立つところに展示品

薩摩切子、ありましたね♪

篤太夫は、対薩摩のこの諸事情に

「日本と薩摩、というふたつの国があるみたいじゃねえか!」

と怒る

そこへ、モンブラン、という名のイギリス人が現れる

薩摩藩の家老、岩下佐次右衛門と一緒に現れた

篤太夫は日本で言われたことを思い出しました

「モンブランには気をつけろ」

それがこのイギリス人の事なのだなと思うが

ただ、睨みつけているだけでした


このパリで、ごたごたは新聞に取り上げられてしまった

日本は大君と、薩摩太守とによる二つの政府で出来ている


モンブランはイギリスの外務省と関わり、

怪しまれずに動き、日本にダメージを与えているのでした

徳川幕府を潰そうとしているのか

イギリスのそんな地下での動きを多分知らない、

徳川昭武はテュイルリー宮殿にて

ナポレオン三世と謁見の場で、

慶喜から託された挨拶文の代読を見事にこなした

諸国の名士も集まるこの場は、

徳川の権威を海外に示すまたとないチャンスでありました

昭武さん、まだまだ少年のようなのに、見事ですね

しっかり帝王学を会得されていたのでしょうね


なので、慶喜はパリには、

昭武の能力の高さを考えれば自分が行くより相応しいと

考えたのでしょうね



昭武を演じてる子役を卒業したばかり、と見える俳優さん

お顔立ちも品があり、知的でほんとお見事でした

昭武とはどういう方なのか、ドラマの先が楽しみです



日本では、慶喜はフランス公使ロッシュと話し合った

「日本の生糸を最優先でフランスに売りなさい

ナポレオンのようにやりなさい」

と、ロッシュの助言を受けた

慶喜は、兵庫の開港を決めた

また、薩摩の島津久光の政権奪取を阻止した

慶喜さん、なんかいい調子みたいですね



さて、パリの篤太夫

見るもの聞くもの興味深く、またいろいろなことを

考えついたように見えます

昭武がホテルを出てアパルトマン暮らしをしようとした時

家賃を安くするように話をつけた

昭武はその努力にお礼を言い、そこに決めた

きれいなアパルトメント



篤太夫が次に見たのは、「廃兵院」

国のため戦い傷ついた兵隊さんを看護する国営の病院

篤太夫は費用は国が賄うという事に感銘を受けたようでした


この事も、将来の渋沢栄一の業績に関わってくる

ということなのでしょうね

様々な知識をどんどん吸収していく

柔らかいスポンジみたいな頭脳と心

若いっていいですね♪





第21回は後日ゆっくり見れましたら、感想文書きます



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