富山県高岡市、
「八丁道・はっちょうみち」 瑞龍寺(国宝)と前田利長の墓所を結ぶ参道で、
長さは約八丁(870m)あるところからこう呼ばれています。
手前に瑞龍寺、道の突き当りに墓所。
114基もの石灯籠と松並木、石畳の道がきれいでした。
八丁道の外側には、お土産店や民家があります。
この道の中ほどに、利長公の銅像がありました。
前田利長、
二代目藩主利長は、加賀藩の祖、「前田利家とまつ」の長男。
尾張の荒子城で生まれる。
始めは安土城で織田信長に仕え、信長没後は、柴田勝家に属し、
賤ヶ岳の合戦にも参加する。
勝家自刃後は、豊臣秀吉に仕える。
その後父利家が亡くなると、豊臣政権の五大老の立場を引き継ぎ、
家康と対抗する立場となるが、母のまつを人質として差し出したりして、
交戦を回避した。
関ヶ原の合戦後、加賀、能登、越中を合わせた百十九万石の加賀藩が成立し、
前田利長は外様最大の大名となる。
射水郡関野(高岡市)に築城を始める。関野を高岡と改める。
未完成のまま高岡城に入城する。
利長、高岡城にて病死後、大坂夏の陣がおこり、豊臣氏滅亡。
その直後、「一国一城制」が敷かれ、高岡城は廃城となる
(現在、濠などの残る古城公園となっている)
前田氏、
尾張の国愛知郡(現名古屋市中川区)の土豪前田利昌の四男「前田利家」が、
信長に仕え功績を上げ、「能登国」を領する大名となり、賤ヶ岳の合戦後は、
「加賀国」、「越中国」をも領し、その子「利長」の時には、北陸道三国に
百十九万石を領する大々名となった。
江戸中期には、学問の振興など、文治政治を行うが、その後、藩主の
早逝が続き、幕末には藩内の意見が統一できなくなっていた。
明治維新後は、侯爵、伯爵、子爵、男爵などとなっている。
坂本龍馬などによる、幕末の尊王攘夷の論争が激しい頃、加賀藩は、
文治政治を前に出し、学問や、文化の隆盛に力を入れていたのですね。
土佐、薩摩、長州のような藩のあり方もあれば、このような飛び出ない
藩のあり方もあったのですね。