kohは今日も元気です

思うようにブログアップが出来ませんが、俳句のこと、テレビ番組のこと等、日常をぼちぼち書いていきます。

俳誌6月号がきました 

2022-05-31 15:31:05 | 俳句・和歌

 

 

明日からは6月、早いです

時間に追われるばかりで充実感がありませんが

取りあえず1~5月、毎月投稿出来ました

去年と一昨年は投稿しない月や、俳句大会にも参加しないこともあり

気持ちが離れがちでした

 

今月はほんとに出来なくて好きな句がないのですが

 

山茱萸の整う枝に花整う

春霞いよよ怪しきめがね拭く

山焼きやいのち育む赤き色

 

 

数日前、俳句大会がありました

投句した人119名

なんとか佳作に選んで頂きました

 

囀りやなぞなぞ一つ解いてみる

 

賞を頂いたのは、三年ぶりかと思います

まだ入会されて浅い方々が、何人か受賞されてました

 

今大会の大賞は

 

老鴬やまだ冷めきらぬ登り窯  K Yさん

 

でした👏 なるほどなあ

 

がんばろ。

 

 

 

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鎌倉殿の13人 第20回 帰ってきた義経

2022-05-29 00:47:42 | 鎌倉殿の13人

 

第20回 帰ってきた義経

 

文治元年三月 

義経は檀ノ浦の戦いで源氏に勝利をもたらした

 

でも、頼朝とのわだかまりは大きくなるばかり

勝利の凱旋は成りませんでした

ただただお兄ちゃんの喜ぶ顔を見たいという希望もかなわず

 

 

文治三年三月

 

義経は鎌倉を捨て、藤原秀衡を頼って平泉に来た

 

おまえは日の本一の英雄になった

平家を倒したのは、おまえだ

ようやった

 

秀衡は温かく迎え入れてくれたようですね

かつて秀衡にも、鎌倉を倒し天下取りの願望があったようですが

やはり、世代交代が見えて来た

 

そして、秀衡の死

 

秀衡役の俳優の田中泯さんは前衛派ダンサーですが

白い着物で庭に降りた時の動きは、もう

お得意のダンスに見えました

指の先までダンスしてました

 

義経を庇護してくれる人が亡くなり、義経の命が危うくなってきた

 

文治五年四月

 

義時は平泉に行かせてほしいと頼朝に願い出た

なんで行くかなあ~

義経に以前、平泉に行くことが火種になると言ったが

今度は義時が平泉に行くことこそ火種になりますよ

 

「自らの手は汚さず、義経の首を取るように」

と、頼朝は義時に言った

「あくどいよの~」と、自ら言った

分かってたらやめて下さい

 

義時と共に、あの善次も行くとは、殺人請負人ですよ

 

義時は義経の鎌倉に対する心を探ろうとする

田畑を耕し、妻と娘と睦まじく暮らしている義経

 

「平家を倒した私は、今はこおろぎと戦っている

日々田畑に立って仕事に勤しんでいる」と言った

畑の作物がこおろぎに食べられて困っているそうで(^-^;

だが、

「平泉に手を出してみろ、決して許さない

その時は、鎌倉が灰になるまで打ちのめしてやる」

 

そう言った義経の目は、平家と戦ったあの時の鋭いまなざしだった

 

頼朝兄さん、恨まれてる、そりゃそうです

 

頼朝もですが、義時の様子が変わって来ましたね

目つきが変わって来たし

静ちゃんのこと言ったりして、どういうつもりか知ってますけど

こういう風に、人は変わっていくということでしょうか

義時さん、変わった

 

その静は鎌倉側に捕われている

 

”しづやしづしづのおだまきくり返し昔を今になすよしもがな”

 

白拍子の舞は見事で

「静御前でございます」

と名乗ってしまったから、もう絶体絶命

産んだ男の子は葬られてしまった

 

そして、静は鎌倉を去り行方知れずになってしまった

義経伝説のように、静のその後の伝説もあるようですが、知らないです

悲恋ですね

 

”吉野山峰の白雪踏み分けて入りにし人のあとぞ恋しき”

 

義時は義経に、けし掛け、泰衡や国衡を欺き

もう、藤原氏は後に引けなくなってしまった

義経、武蔵坊弁慶の居る衣川の館に泰衡勢は攻め入った

 

この時なのですね、弁慶が自分の身を盾にして義経を守った

”弁慶の立ち往生”

 

 

頼朝が、鎌倉に届いた義経の首印を前に号泣の場面で

第20回は終わりましたが

どの場面も判官贔屓の涙を誘う場面でした

 

と同時に、やはり義経は北へ逃げおおせた!

と思わせる余韻を、三谷幸喜さんは演出されたと思います

 

源義経はこれから先も悲哀のつわものとして、語られるのでしょうね

 

 

 

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鎌倉殿の13人 第19回 果たせぬ凱旋

2022-05-21 16:09:17 | 鎌倉殿の13人
  1.  
 
第19回 果たせぬ凱旋
 
 
 
 
”互いを認めつつ 信じられない兄弟がいる
 
政治の頼朝 戦の義経
 
ふたりの天才が 手を取り合うことを
 
後白河法皇は 許さない”
 
語り 長澤まさみさん
 
 
 
 
安徳天皇と三種の神器の刀は深い海に消え、現れることはなかった
 
まだ海の中を探している者もいるという
 
 
 
鎌倉殿の側近たちは、何とか義経を鎌倉へ戻したいと策を練っていた
 
大江広元が思い付いたのが
 
義経を「受領」にしてもらうよう後白河法皇に願い出る、ということ
 
受領になれば検非違使と兼任できないので検非違使から外れ
 
鎌倉に帰って来れる
 
 
 
 
上手くいった!
 
 
と、思いきや法皇は検非違使&受領を兼任させる
 
そう来ましたか
 
法皇は何としても義経を京都に置いておきたいようです
 
なんで、そんなに?
 
朝廷のことに詳しい三善康信が鎌倉に来ていて
 
それを聞き、こんな裏話をしました
 
 
『法皇様は大きな力が生まれると、それにあらがう力を作ろうとなさる
 
鎌倉殿と九郎殿の仲が上手くいかないことを望んでおられる節があります』
 
 
さすが法皇のそばにいる人でないと言えない事です
 
 
法皇は死んだふりしてまで、義経引き留め作戦に出るし
 
源行家が出なくてもいいのにまた出て来て
 
不安をあおることばっかり言うし
 
これでは、義経も頼朝も惑わされますよ~毎週TVを見てるこちらも~((+_+))
 
気持ちが行ったり来たり、何を信じていいのやら予測不能です
 
 
法皇が 【頼朝追討】 の宣旨を出した
 
 
それを聞いた頼朝は、全軍で京を攻めると決断した
 
で、またここで思わぬことが
 
義経が失踪した、兵が集まらなかったからだ
 
で、次は法皇が 【義経追討】 の宣旨
 
裏返って裏返って裏返って
 
なんとまあ
 
畿内、西国諸国を頼朝が統治することを法皇に認めさせた
 
また義時は法皇にきっぱりと言った
 
『されど我が主は疑うております
 
法皇様は日本一の大天狗、お言葉を信じていいものかと』
 
 
すごい勇気の義時 でも首が飛ばなくてよかったです
 
 
 
義時と父時政が義経を探すために来ていた京の宿に
 
失踪していた義経が突如現れた
 
 
鎧兜も着けていない、薄汚れた蓑をまとった姿だった
 
『兄上とのことは、今から何とかならぬか』
 
問いかけられた義時は、法皇から義経追討の宣旨がなされたと告げる
 
義経は、もう何もかも終わったと思ったようだ
 
呆然としていた
 
 
 
『私の何がいけなかったのか』
 
 
 
義時が、義経に言った
 
『人をお信じになり過ぎるのです』
 
父時政は
 
『経験もないのに自信も無かったら何も出来んと、あなたは仰った
 
自信をつけるには何がいるか
 
経験でござる、まだまだこれからじゃ』
 
と励ますように言ったが…
 
 
 
 
『私は御台所の膝の温かさを忘れない』
 
 
 
『さらばじゃ』
 
 
 
こんな寂しいそうな顔…
 
この場面は辛くなります、泣きそう
 
 
奥州に行けば火種が生ずると義時に言われても奥州に行くのですよね
 
そばに家族のいない寂しい少年時代を平泉で過ごしたけれど、
 
藤原秀衡は可愛がってくれたのだと思います
 
 
 
頼朝軍を敵に回し勝ち目はあるのか、と義経を気に掛ける藤原秀衡
 
 
『早まったな…、九郎』
 
 
義経はいい思い出があるから戻りたいと思ったのでしょうね、平泉へ
 
 
 
歴史を変えることが出来るなら
 
誰も知らないところに行って、戦を知らない戦は出来ない若者になって
 
無邪気に暮らしてほしい
 
 
恐らく近々、義経の最期を見なければならない…
 
 
 
 
子供の頃、鞍馬ではどの様に暮らしていたのだろう
 
厳しかったでしょうね
 
 
 
京都の貴船から鞍馬へ抜ける道がありまして
 
貴船から鞍馬へ、或いはその逆を取り、歩いたことがあります
 
2~3回、或いはもう何度か行った気がします
 
太い木の根のむき出しの道を行くのですが
 
牛若丸はこの木の根を飛び越えたり、高い枝を飛び移ったりしてたのか…
 
天狗さんに習ったというが、誰やったんかなあ~
 
などと思いつつ登ったり下ったりしました
 
静かな山道ですから、淋しい道です
 
若い時に行ってるので、しんどかったという思いは残ってないのですが
 
今ならとてもとても、無理です
 
 
途中に、与謝野晶子さんの庵があったと思います
 
木造平屋の簡素なものだったと覚えていますが、今もあるでしょうか
 
与謝野晶子さんは、あの庵で義経を思われたこともあるでしょうね
 
 
 
貴船はシャガの花が沢山咲きますが、もうその時期は終わったかも
 
義経の場面を見て、なんだかうら悲しくなりました
 
 
 
 
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鎌倉殿の13人 第18回 壇ノ浦で舞った男

2022-05-15 17:52:14 | 鎌倉殿の13人

第18回  檀ノ浦で舞った男



頼朝は少しでも火種になりそうなことは

ことごとく消してしまいたいようで

信濃源氏の義仲、義高を討ち取り、

甲斐源氏の武田信義を抑え込み、その嫡男は殺された

次の標的は



源範頼、義経は、瀬戸内方面に進軍した

範頼は義時と共に周防まで進軍

義経は暴風雨のため摂津で足止め

辛抱できない義経は反対を押し切り、悪天候の中進軍していった


瀬戸内海は穏やかな気候の所と聞きますが

この時は荒れたのですね

鳴門の渦潮など海流も過酷な条件のひとつだったでしょう



文治元年(1185)3月


義経率いる軍は、檀ノ浦へやって来ました


義経は、厳しい戦いでの勝利をもぎ取りましたが

やってはいけない事をしていました

漕ぎ手や舵取りを討つのは戦の作法に反する

味方の諫めるのも聞かず、味方にもそれを強いるなど

これは、あかんやろ~

平家軍の舟から舟へと飛び移る、「八艘飛び」





これはかっこよかった、と言えばひんしゅくを買いますが

見事でした





海に慣れ、さらに地の利も大きい平家を滅ぼしてしまいました


檀ノ浦の戦、もの知らずの私もこれは心に残っています








二位尼は死を決意して、幼い安徳天皇を抱き寄せた

安徳天皇が「どこへ連れてゆくの」と仰ぎ見れば、
二位尼は
「弥陀の浄土へ参りましょう波の下にも都がございますよ」
と答えて、ともに海に身を投じた


総帥宗盛も嫡男の清宗と入水するが
命を惜しんで浮かび上がり水練が達者なために
泳ぎ回っていたところを義経軍に捕らえられた


小泉孝太郎さん演ずる平宗盛は総帥なのですね
そして、こういう事で、源氏の陣に連れてこられたのですね 


この戦いにより、平氏(伊勢平氏の平清盛一族)は

25年にわたる平氏政権の幕を閉じた







三種の神器の刀も安徳天皇も

海の底へと消えた

戦は一時止まり、源氏平氏共に手を合わせた


義経には想定外の結果だった

「この先私は誰と戦えばよいのか
私は戦場でしか役に立たぬ」

遠くを見つめ、何を思っていたのだろう


梶原景時曰く

神がかった強さを持つ
才走る
人の情をないがしろにする
勝つためには手段は選らばぬ

そういう気性だったんですね…

そう言えば、義経は鎌倉へ帰れない

兄の喜ぶ顔見たさに、ここまで戦ってきたのに

検非違使に任命されたということは京を離れてはいけない

えらいこっちゃです(>_<)

そんな時、捉えていた平宗盛を鎌倉へ送る役目を受けた

が途中、

頼朝からは鎌倉へ義経を入れるな、という命令が下った

ああ、お兄さんはもう…

義高を許したように、許してくれないのでしょうか

助け船がでないのでしょうか

その時、平宗盛が義経のために嘆願の文を書いてしんぜようか?

よかった!渡りに船ではないですか

でも、その文は義経の自筆ではない、と見破り

余計にこじれたようだ

義経は、もう見放されたと悟った

そして、法皇第一に仕える

「源九郎判官義経」と名乗り京で生きることにする

と、決心したのですが…


初めて兄に会った時、
嬉しさのあまり号泣していた義経だったのですが…












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俳誌5月号が届きました

2022-05-06 14:46:47 | 俳句・和歌


春の季語の句を満載にして、届きました


鞦韆・秋干・ふらここ・ふらんど・ゆさはり・半仙戯

「ぶらんこ」は、なんとこんなに色々な表現をするんですね

古く中国から到来した遊戯の具だそうで

中国では後宮の美女の皆さんの遊びだそうで、へえ~

「半仙戯」が分からなくて歳時記をしっかり見たら

こういうことでした

いつもお邪魔するブロガーさんはきっと
説明を載せて下さっていたのでしょうが、
見落としていました、もったいないことしました<m(__)m>



先輩の方が「半仙戯」の俳句を詠んでおられました

人生は足したり引いたり半仙戯  先輩の俳句です




今月の我が駄句を

赤レンガの茶房に揺るる花ミモザ
ひこばえを抱く老木に光差し
着尽くしたる制服姿卒業す
比良八荒湖の対岸灯点して



近江八幡の八幡堀近くに、近江では有名な
和菓子と洋菓子のお店があります

喫茶室もあり、その庭には
睡蓮の池、その周りの色々な植物
ミモザが美しく、煉瓦塀越しにも花が見えるんです
最近は行ってないのですが思い出して詠みました

大型連休Uターン、あちこち混雑しているようですね

免疫力の低下を感じる私は、もうちょっと旅行は我慢しようかな


きのうは立夏

大好きな夏


 
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鎌倉殿の13人 第17回 助命と宿命

2022-05-05 18:30:17 | 鎌倉殿の13人

第17回  助命と宿命


義仲の陣を離れた巴御前ですが

頼朝軍に捕まり、鎌倉に連れてこられてしまった




巴御前に関する資料は少ないらしのですが

巴はとにかく武人としての才能が高かったようですね

その上、容姿端麗

義仲の幼なじみで武芸の稽古相手になったり

便女(びんじょ)として彼の配下となったとか

ただ、義仲との離別の場面はどの物語にも描かれているそうです

戦場で追い詰められ、

義仲は共に討ち死したいと言う巴に対し

生き延びるようにと説得し、逃した

巴が草深い道をふらふらと歩いて行きましたね




義仲よりの文を義時に渡す場面


義仲は義経、範頼の兄弟軍に討たれた

更に頼朝は人質の義高を討つつもりだ


「義時よ、三日やろう  義高を討て」

義時がその任務を課せられた、宿命と悟った

頼朝に逆らえば北条は生き抜くことは出来ない


だが姉の政子は違う、何が何でも義高を助けたい

そこで伊豆山権現に隠すことを考える

義高は巴から受け取った義仲の文から父の思いを知り

いちどは伊豆山権現に行くことに納得したのだがやはり

義高は

「私は鎌倉殿を決して許さない」

なんと義時をも信じないと言うのだ

そうなれば、結果は自ずと…

義高は信濃へ帰ろうとした

だが逃げ出すや否や、義高は討たれてしまった

大姫の命覚悟の願いに頼朝も屈し

「討つな」との命を出したのだが…

家人たちに伝わるのが遅かった


この時、政子のひと言が如何に大きな波紋となるか

御台所という立場がどれほどの力を持つか

前に亀さんの言った言葉

「自分が本当に鎌倉殿の妻として相応しいのか考えなさい」



鎌倉の人々は、誰を信じればいいのか分からなくなって

皆敵に見えて来ていたのかもしれない

鎌倉は海も島も、あんなに美しいのに



逃げ切れなかった源義高、冠者殿
ほんとに美しかったですね
目の保養が出来ましたよ、今生での5本の指に入る美形でした



大姫と無邪気に毬で遊ぶこともあった、12歳なのですよね






いよいよ我が身に危険が近づいてきたことを悟ったか






故郷の信濃で生きて行くと、文を残し逃亡




追手が来た




山の中を駆けるが…


源義高は鎌倉の常楽寺の木曽塚に眠っていると伝わります


それから、静御前が登場しましたね



白拍子の静御前

ちょっと挑発ぎみのような

義経には初恋かな、セカンドラブかな

史実を知らないので、このドラマわくわくします



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鎌倉殿の13人 第16回 伝説の幕開け

2022-05-05 17:45:26 | 鎌倉殿の13人


第16回  伝説の幕開け


義仲の寝覚の山か月悲し  芭蕉

木曽の情雪や生えぬく春の草  芭蕉

木曽殿と背中合せの寒さかな  又玄

木曽塚の夏艸ひくも宿世かな  兼輔


巴(を歌って)

かくのごときをみなのありとかつてまた
おもひしことはわれになかりき

としつきは過ぎにしとおもふ近江ぬの
みづうみのうへをわたりゆく月

三浦義一







巴御前は義仲が亡くなり数年後
尼僧になって訪れ寺のそばに草庵を構え
日々、義仲の菩提を弔ったそうです
「無名庵」と呼ばれ、
今は一般に句会や文化活動の会所として利用させてもらえます




木曽義仲のお墓

お墓の後方の白壁の建物が無名庵です
当時のままではないでしょうね




↑巴御前の小さなお墓




木曽義仲は
平安時代末期の信濃源氏の武将、源義賢の次男
『平家物語』においては旭将軍とも呼ばれている

以仁王の令旨によって挙兵
倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破って入京する

頼朝や義経を同志と信じ源氏再興を目指したのでしょうね
しかし平家を京から追放したあと
後白河法皇には嫌われ、東国の源頼朝からは圧力を受けた

義仲は頼朝が派遣した義経を大将とする源氏軍に
粟津(近江)の戦いで討たれてしまいました

ドラマの場面では、矢が義仲の顔を射貫くという何とも
残虐なシーンはいたたまれませんでした


義仲に寄り添い命も惜しまず戦った巴御前、素晴らしい
時代祭でも一番輝いています

義仲は陣から巴を逃がしてましたね
巴はその後、どこでどの様に生きたのでしょうか
色々あったのでしょう
義経同様、各地に巴御前伝説が残っているようです




「鎌倉で生き残ろうと思えば、頼朝の言う通りに動くしかない」
と、時政は義時に言いました

あの、上総介廣常を謀反人に仕立てて殺した頼朝のやり方
坂東武者は震えあがっていた

裏のある話ばかりで皆の心が分からなくなってしまいました

ほんとに、だまし討ちだらけで信じられることがない

血塗られた鎌倉


義仲は、最後まで頼朝や義時を信じていたようです

いや、信じたかった!のかもしれませんが

鎌倉に人質となったままの息子の義高はどんな思いでいるのか

政子、実衣、大姫は義高の見方の様です



義経は、先陣の大将として福原へと進んだ

この事にもいくつかの戦略があり

梶原景時が、自分が思い付かなかったと悔しがったほどの

妙案だったらしい









宗盛はここへは源氏は攻めてこないと安徳天皇に伝えていたが…



寿永三年(1184)二月七日  一の谷の攻防が始まった

それを見ていた梶原景時は言った

「八幡大菩薩の化身じゃ」


義経は西へ平家を追い次々と、打倒した

戦の天才とうたわれた義経、この強さは何をもたらすのか

義経伝説は始まった






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