久しぶりに日帰りバスツアーで大阪に行きました
寒い時期だからなのか、遠出でなく大阪市内をポンポンと周る、一日でした
あの日、夜のうちに積もった雪は、家の近くで6cmくらいになっていたと思います
事故など起きないようにと思いながら車窓からキョロキョロ見ていました
滋賀から京都(南部)に入る手前までこんな感じでしたが、
長いトンネルを抜けるとそこは、雪のかけらもありません
わずかな移動で差がつくのですね
これでは期待している「雪の大坂城」は先ず、無理だろうと、思いつつ…
大阪の街は、カラリとしていました
思いがけず見つけた、「井岡弘樹ボクシングジム」
あの、一世風靡したボクサー井岡弘樹さんですね
看板をよく見ると、ダイエットという文字もあります
ボクシングでダイエットね~?
痛いダイエット法なのかな?
しゃぶしゃぶの昼食のあと、
あっという間に、目的の道頓堀の角座まで来ました
ここで、漫才と落語を見ました♪
朝ドラ「わろてんか」の寄席のような所を想像していたのですが…
今風の簡易的な小屋に見えました
昔はこの辺り、演芸館がいくつもあったと聞いてますが、今はないですね
若者の好きそうな、食べ物やファッションのお店が多かった
角座で、
桂咲之輔さんという噺家さんはアクティブに熱演、細い方なのに
一度、見て下さい、面白いし、その動きにびっくりしますよ
とにかく一席終えて、くたくたみたいでした(^^♪
そりゃそうでしょねあの動きなら(^_^;)
他に、漫才、三組、まあまあやな
道頓堀を通りましたが、やはり外国の方多いですね~
観光客多いです
日本橋の上でバスを待っていると、堺筋向かい側に大きな石碑が見えました
とても古そうなので見たかったのですが
大通りを挟んで向こう側なので分かりません
取り敢えず写真だけ撮っておいて、帰ってからしらべようかな、と
どうやら「道頓堀」に関わる石碑だったようです
1585年(天正13) 豊臣秀吉の命で大坂城の西惣構堀として東横堀川が開削された
(1594年開削とも言われるが大阪市最古の堀川)
1612年(慶長17)~
大阪冬の陣の和睦の際、埋めた東横堀川と西横堀川を結び、堀川を開削する計画が始まる
夏の陣で、大坂城の落城のすぐあと、掘り返す
同時に、掘り止めから西へ、新しい堀川が開削される
この時、安井道頓という人が、新川奉行となり、開削に尽力したが、大阪の陣で戦死
あとを、従弟の安井道卜(どうぼく)や安藤藤次らが引き継ぐ
1615年(元和元年)
新川が完成
この時の大坂城主、松平忠明が、安井道頓の死を悼み、また
莫大な私財を投じおこなったことや、功績に対し新川の名前を「道頓堀」 と命名した
大阪の陣のあと、道卜は開削工事の再開の認可を徳川から受けたが、
徳川方からの人夫提供を断り、自らの手で百姓を集め、私財を投じ工事を完成させた
新しい堀川の両岸の開発も行い、町を整えた
その名前に「宗右衛門町」、「九郎右衛門町」など、安井家出入りの百姓の名前をつけた
思うのですが、大坂の人達は、大坂城が徳川に落とされても、徳川の時代になっても
豊臣を忘れなかったし心で尚、支持していたのだと思います
その気持ちが、徳川からの工事の援助を拒んだのではないでしょうか
彦根でも、豊臣方の残党は最後まで抵抗し、自ら命を絶った者もいたと聞きます
彦根でさえ、そうなのですから大坂城下の人々なら尚のことだったのでは…
今でも、大坂城は豊臣のもの、という感覚がありますもの
道頓堀近くの日本橋北詰に建つ大きな石碑は、
安井道頓、道卜の功績を讃える、紀功碑なのでした
道頓堀川と、その横の繁華街、道頓堀に
こんな由来があったとは、
大阪の街はやはり、大坂城と切っても切れない縁があるようです
きっとまだまだ、あちこちにあるのでしょうね♪
そして最後に立ち寄った大坂城
雪の大坂城ではなかったですが、
下層部は白壁(徳川式)、最上層部が黒壁(豊臣式)
1930年~1年かけて市民の募金150万円によって天守を復興した
黒壁に、金の虎、まるで阪神タイガースのお守りみたいです、知りませんけどね…
「真田丸」の放送の頃来て以来です
また、きれいになった?
内堀には、キンキラキンの船に、たくさんの人が乗船していました♪
「大阪城御座船」
「豊臣期大坂図屏風」 (オーストリアのエッゲンベルク城所蔵)
に描かれていた秀吉の「鳳凰丸」を参考に再現されたもので、
なんと、一隻に金箔3000枚使ってあるとか!
やっぱり、秀吉やわ…
内堀を約20分周回するそうですよ♪
ここ、大坂城を最後に帰路につきました
滋賀では雪がかなり積もっていたので心配していましたが、
大阪は雪もなく往復とも道路はスイスイ
予定通りに帰れました
今回は、ちょっと物足りない…
それくらいがいいのかな?
あ~どこか行きたいな