石川数正は裏切り者?
石川数正
石川家の松平の家臣として記録があるのは
祖父 忠成
父 康成
そして数正
石川家三代続いた松平~徳川の家臣だったのですね
数正は子供の頃から家康と共に過ごしていた
今川氏の駿府での人質時代から幼き主従のふたり
数正は頭脳派で交渉事など外交担当
数正は家康の命を受け、ひとりで出向くことが度々あった
家康の信頼を得ていますよね
印象深いのが信長と清州同盟を結んだあと
三河の今川氏真が
瀬名と子供二人、それに
瀬名の父母である関口氏純と巴を人質に取った時
数正はひとりで吉田城の今川本陣に向かった
赤ん坊(亀姫)を背負った瀬名と
数正に抱えられた竹千代(のちの信康)
川を渡り切って、家康の元に戻ることが出来た
じーんと来る場面でした
瀬名奪還までは困難だらけでドラマは三回にわたり
色んな人が登場しました
この頃木下藤吉郎が、初お目見えでごぜえやす
本能寺の変のあと
主君信長の仇をとったと
息巻いている豊臣秀吉との交渉に苦心した
その頃から、あれ、あれ?
若い家臣との意見の食い違いが増えてきた
秀吉の攻撃に負け、織田信雄は秀吉と和睦
もう、家康には秀吉と戦をする理由がない
それでも家康は数正の助言を受け止めない
昔の家康からは想像つかない攻撃な殿になったか
数正は折れた、殿に従おう
殿を天下人にすることこそわが夢
もうひと暴れしてして見せよう
そう誓った日が家康の家臣としての最後だった
天正13年(1585)数正出奔、秀吉の元へ
数正はもうここらが引き際と思っていたのでしょうか
こんな文を置いて徳川から去った
本心なのか、どうなのか分かりません私には
德川にとっては、思いもよらぬ一大事
数正とは気心の知れた酒井左衛門尉忠次にも分からない
若手家臣団は、数正を恨むばかり
本多正信は
「数正が秀吉方に行けばこちらのことを何もかも知られたも同じ」
と
皆のいらだち倍増しそうなことを
勝てる!と思ったのかどうか知りませんが
家康は「天下を取る、安寧な世をつくる」と宣言
秀吉と戦う、これが英雄の選択でした
ところが
人生登り坂あり下り坂あり そして「まさか」があった
夜半、巨大地震がおきる
(天正大地震)
安土桃山時代 天正13年(1586)11月29日
M7.8 (諸説あり)
震度 7
津波 有り
被害は甚大だったが、三河よりも
秀吉のおひざ元、畿内一帯は更に被害が大きかった
秀吉
「つくづく運のええ男だわなあ~家康って奴は~」
天災の後、秀吉は戦を避ける作戦を突きつける
上洛を求めるが家康は拒んでいる
妹の旭を家康の正室にと送り出した
既婚の旭を離縁をさせての輿入れというから、ビックリ😲
それでもだめならと
秀吉は大政所である母親を送るという、ビックリ😲😲
これでダメなら天下の兵を集めて攻め入るですと
皆、数正の行動についてもう一度、語り合った
直政「正論ばかりでうっとうしく好きではないが
敬っていた…
本多忠勝、榊原康政、右に同じ
皆それぞれに人を慈しみ、戦なき世を描いていた
心打つ言葉が、いっぱい出て来ましたね
*於愛の方 「お方様の目指した戦なき世は
他の方が作ってはいけないのですか」
*本多忠勝 「秀吉に膝まづいたら、お方様に顔向けできん
この想いを捨ててまで生きようとはせん」
*酒井忠次 「出奔すれば戦をしたくてももう出来ん
数正はそれが徳川を守ることだと思ったのだろう」
*本多正信 「だから誰も巻き込むことなく自分ひとりで
罪を背負った」
*酒井忠次 「殿 お心を縛り付けていた鎖を
そろそろ解いてもよろしいのでは
己を苦しめなさるな」
家康 「わしは天下を取ることを諦めてもよいか
秀吉に膝まづいてもよいか」
涙ながらに言った
雨降って地固まる、皆の絆が深まったのではないですかあ~
さて、当の石川数正は
奥様の鍋さん 「のんびり出来て嬉しゅうございます
このような職にあうと分かっていながら
まことに殿がお好きでございますな」
数正 「しーーーっ あほたあけ」
一線を退いた夫が、家でのんびり、妻ものんびり~~
追記
ところで、家康のかつての側室お万の方が
人知れず?育てている家康との子
「於義丸・おぎまる」が登場しました
お万はいつか殿のお役に立つよう育てます
と言ってましたね、その時が来ました
それは秀吉が家康の息子を人質として差し出すよう命じた時で
於愛との息子は幼過ぎた
そこで、お万の子の名が上がった訳で
お万もその子も武士として死も覚悟の上だった
なんとけなげな
於義丸の側にと石川数正は我が子
「勝千代」を伴わせた
このふたりは、秀吉側に行きました
さて、この子たちの未来はどうだったのでしょうか
今まで数多くのドラマの上で聞いたことがないのです
なんとか、この戦ばかりの世を生き抜いてくださいね