【卓上四季】:消えたかぞく
『漂流する日本の羅針盤を目指して』:【卓上四季】:消えたかぞく
「人類史は、ヒロシマ、ナガサキで折り返し点にさしかかった」と井上ひさしさんは書いた。その折り返し点の記憶をリレーしていくため、30年以上かけて戯曲「父と暮せば」を完成させた▼広島への原爆で被爆死した父親の幽霊が生き残ったことに罪悪感を抱く娘を励ます物語は、何度読んでも胸を打つ。父は原爆をこう語る。「あのとき、ヒロシマの上空五百八十メートルのところに、太陽が、ペカーッ、ペカーッ、二つ浮いとったわけじゃ」「地面の上のものは人間も鳥も虫も魚も建物も石灯籠も、一瞬のうちに溶けてしもうた」▼その時までは、かけがえのない市民の暮らしが確実にあった。広島で理髪店を営んでいた鈴木六郎さん夫婦と子どもの一家6人もそうだ▼六郎さんが趣味で撮りためた写真で構成される「ヒロシマ消えたかぞく」(ポプラ社)は原爆で全滅した家族のささやかな幸福の記録である。著者の指田和さんは、一家がいきいきと生きていた事実は「だれにも消すことはできない」と訴える▼74年前のきょう広島で、その3日後に長崎で原爆がさく裂した瞬間、一体何が起きたのか。まだ何も知らないのではないか、と自問せざるを得ない▼「父と暮せば」の幽霊は「あよなむごい別れがまこと何万もあったちゅうことを覚えてもろうために生かされとるんじゃ」と娘を諭した。記憶のリレーに微力でも貢献する新聞でありたい。2019・8・6
元稿:北海道新聞社 朝刊 主要ニュース 社説・解説・コラム 【卓上四季】 2019年08月06日 05:00:00 これは参考資料です。 転載等は各自で判断下さい。