《憂楽帳・12.24》:戦後79年の証言
『漂流する日本の羅針盤を目指して』:《憂楽帳・12.24》:戦後79年の証言
小中学校の同級生の母親、日吉寿美恵さん(86)が長崎市での被爆体験を話してくれた。何度か取材のお願いを重ね、今秋実現した。
7歳だった日吉さんはその日、爆心地から約2キロ離れた稲佐山近くの叔母の家に預けられていた。閃光(せんこう)を感じた後、倒壊した家屋の下敷きになった。奇跡的に助かったが、仕事に出ていた母親や多数の親戚の命が奪われた。
父も戦争で亡くし福岡県城島町(現久留米市)の親戚に引き取られたが、待っていたのは近所からの「放射能がうつるばい」という差別。医者からも「どうせ生き残りやろ」と侮蔑的な言葉を投げつけられた。
■この記事は有料記事です。残り170文字(全文435文字)
■続きは、会員登録後、お読み下さい。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます