迦陵頻伽──ことだまのこゑ

手猿樂師•嵐悳江が見た浮世を気ままに語る。

東海道偲師想談。

2022-09-06 22:30:00 | 浮世見聞記


大阪日本橋の國立文樂劇場で、前進座公演「東海道四谷怪談」を觀る。


平成二十八年の東京國立劇場公演を觀やうかどうか散々迷った挙げ句に見送ってけっきょく後悔先に立たず、いづれ地方での再演時にと思ってゐるうちに人災疫病禍でいつ叶ふやらとなり、やっと今日に機會を得る。



人手と費用の問題か、平成二十八年所演時よりもかなり場面が割愛され、いきなり淺草裏田圃から始まるためお岩と伊右衞門、お袖と直助權兵衞の関係が明確にならず、前者はともかく後者については、序幕第一場「淺草觀世音境内の場」と第二場「宅悦住居の場」で直助權兵衞がお袖に懸想する様子を丸々割愛したため、今回の賣りだった“めったに見られない”「三角屋敷の場」の悲劇性もいまいち際立たない憾みを残す。

ともに“めったに見られない”「蛍狩りの場」もバッサリ切られ、やけに駆け足で伊右衞門もバッサリ斬られて「犬神家の一族」の名場面を模倣したやうな不思議な姿を晒し、さっさと幕。


結局お岩、小佛小平、小平女房お花の三役で奮闘した河原崎國太郎ひとりばかりが良く、山崎辰三郎ばかりが前進座歌舞伎で、あとは論外ばかりな實態はここでも健在だったわけだが、



もとより承知の私は現在(いま)が脂の乗った時期であらう國太郎の、自分なりのお岩をしっかり創り上げたその成功ぶりだけを樂しみにしてゐたのであり、



そしてその期待にしっかり應える舞臺を觀せてくれたのだから、もうそれだけで充分である。




さて、今ではニッポンの幽靈の古典的代表のやうなお岩様だが、彼女は江戸時代初期に實在した武家出身の女性で、ただし芝居のやうに怨みと嫉妬に凝り固まった幽靈ではなく、むしろ婿養子の伊右衞門との夫婦仲はまわりが羨むほどに圓満で、當時没落寸前だった田宮家を立て直すために商家へ奉公に出るなど夫婦二人三脚でお家復活を果し、浮世で大変な評判を呼んだ云々。

そのお岩が信仰してゐた屋敷内の祠を、やがて近隣の人々は「於岩稲荷」と呼んで厚く信仰するやうになり、



現在も東京都新宿區左門町17に「於岩稲荷田宮神社」として、その歴史を傳へる。

現在も田宮家の子孫が宮司をつとめるこの於岩稲荷社は、東京都中央區新川二丁目にも鎮座してゐるが、



これは明治十二年に四谷の於岩稲荷が焼失した際、初代市川左團次の薦めによってこの地へ移転したもので、昭和二十年に空襲で焼失したが戰後に四谷と共に再建、今日は同体の於岩稲荷が二ヶ所に存在してゐる。

さらに四谷の於岩稲荷のそばにはもう一ヶ所、陽雲寺の境内にも於岩稲荷が存在しており、田宮神社との関係がわかりにくいが、



こちらは戰後のどさくさに當時の住職が勝手に創ったものらしく、お岩の故事来歴とは無縁云々。


實在のお岩は寛永十三年(1636年)に亡くなり、四谷にあった妙行寺に葬られるが、寺は明治四十二年に現在の東京都豊島區西巣鴨四丁目に移転、



門前の脇にはお岩の墓があることを示す石碑が建ってゐる。


四世鶴屋南北の「東海道四谷怪談」は、お岩と伊右衞門の名前だけを借りて、あとは當時の江戸で實際に起きた事件を巧みに織り込んで創作したもので、お岩の没後二百年近くが經った文政八年(1825年)七月、江戸中村座で初演される。

一本の狂言として單独で上演されたのではなく、義太夫狂言の「假名手本忠臣蔵」の“裏狂言”としての交互上演で、初日は「假名手本─」の大序から六段目までを上演し、そのあと二番目世話狂言として「四谷怪談」の序幕から三幕目“砂村隠亡堀”まで、翌日に「假名手本─」七段目から十段目を上演してから「四谷怪談」の三幕目を再び見せて四幕目、そして大詰(五幕目)で民谷伊右衛門が佐藤與茂七に討たれると、そのまま「假名手本─」十一段目に移行して“愛度夜討(めでたくようち)”と云ふ、裏表の凝った趣向云々。

このとき三代目尾上菊五郎がお岩を初演して大當りをとり、以来かつては尾上家(おとはや)のお家藝ともなり、


(※六代目尾上梅幸のお岩) 

前進座ではこれまでに昭和五十一年と同五十七年に、五世河原崎国太郎のお岩で上演されてゐる。



その昭和五十七年國立劇場再演時には、私の師匠が佐藤與茂七役で客演してゐるが、このときに我こそが與茂七役と思ってゐたフシのある現在はゐない一人の劇團員が、師匠に對して感じ惡い態度をとった云々。

芝居よりも自分を見せることが最優先する劇團系役者にありがちな哀しい怪談噺を脇筋に、今回の臺本では後半に主演格へと持ち上がる佐藤與茂七の熱演ぶりを眺めながら、師匠はこの時どのやうに演じてゐたのだらうと、その姿をひとり偲ぶ。










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