ラジオ放送の觀世流「杜若」を聴く。
三河國八橋まで来た旅僧は、當地名物の杜若(かきつばた)の群生に見惚れてゐるところへ聲を掛けてきた女性に招かれるまま庵へ行くと、女性はその昔在原業平の和歌(うた)に詠まれた杜若の精であると打ち明け、業平ゆかりの装束をつけて古への戀を偲んで舞を舞ふと、業平こそ女性を救ふ菩薩であったと“秘密”を明かして姿を消す──
東日本大震災の“義援能”として、渋谷區松濤の舞薹で觀世流宗家がシテをつとめた「杜若」が、私がこの曲を觀た初めだが、さっぱり内容を理解できなかったことは憶えてゐる。
やうするに、なぜ在原業平と云ふ俗の最たる色男が、菩薩と云ふ“聖”の化身となり得るのか、中世人のさうした感性と解釈ぶりが納得いかなかったのである。
その後、他流の舞薹を觀たり、自身も仕舞で挑戰したりと、私なりの努力も試みたが、やはりこの曲へのニガテ意識はいまだ克服できてゐない。
もしかしたら、相性の問題なのかもしれない。
かつて旧東海道の三河路を旅した際、件の八橋にも立ち寄ったが、田園地帯を名鐵支線がトコトコ走ってゐた景色が、この曲に因んだいちばんの良い思ひ出である。