文治元年(1185年)、近くの海から引き上げられた地蔵菩薩像をこの山に祀ったことから「薩埵(さった)山」と呼ばれるようになったと伝わるこの山は、足利尊氏と直義の兄弟が源氏特有の身内同士の殺し合いを展開した「勧応の擾乱」、武田信玄と今川氏真が対決したりと、たびたび戦場になりました。
東海道の難所だったこの山を越えるには、大昔は麓の波打ち際を通るという非常に危険な方法をとっていましたが、江戸時代に入ってからは朝鮮通信使のために、薩埵山を越える道が拓かれました。
その道筋は時代によって変し、上道、中道、そして脇道と三本ありましたが、

ほぼ完全に残っているのは中道のようです。
ちなみに、波打ち際を通っていた大昔の“親知らず子知らず”──下道──は、峠道が拓かれてからは廃道となっていましたが、幕末の大地震で海底が隆起してから再び通行出来るようになり、

現在は東海道本線が通っています。
京側から中道に入る場合、資料だけでは道筋に不明瞭なところがあるため、現地の案内標識をよく確認しながら辿る必要があります。

一度国道1号線に合流してから東海道本線の「洞(ほら)踏切」を渡り、

一度国道1号線に合流してから東海道本線の「洞(ほら)踏切」を渡り、

私道のような細い坂道をへてまっすぐに伸びる「往還坂」を上ると、正面の墓地を抜けた先に、峠道の入口が階段に整備されて続いています。

その傍らに用意された好意のストックを借りて、私も峠に分け入ることにします。
初めは木立に囲まれた急斜面を上りますが、

やがて山肌伝いのなだらかな道になると視界がひらけて、右手の眼下には駿河湾が、その向こうには伊豆半島の霞んだ姿が望めます。
道は歩きやすく整備され、ストックを突か突き進むうち、

古えよりこの峠道を通る人なら誰もが足を止め、現代人ならばまず写真に収める“絶景スポット”を、自分も撮ることに。

天候がよければ富士山の雄大な姿も拝めたはずですが、……まぁ私の日頃の行ないが悪いのでしょう。
このあたりは実をつけた枇杷の木が繁り、道端には収穫した枇杷を運搬するためのモノレールが、斜面を這うようにして敷設されています。

乗ってみたら面白そうだな、などと大人げないことを考えたりしているうち、トイレのある休憩所で指示に従って杖を返し、ここからはコンクリート舗装された道を行きます。

乗ってみたら面白そうだな、などと大人げないことを考えたりしているうち、トイレのある休憩所で指示に従って杖を返し、ここからはコンクリート舗装された道を行きます。
少し行くと、右手の道端にここが薩埵峠の頂上であることを示すと思われる、“延享元年 六月吉日”と刻まれた古い道標が。

ここを過ぎると枇杷の木はいよいよ繁くなり、やがて間の宿があった倉沢へと、道は一気に下って行きます。

ここから西倉沢、東倉沢、寺尾と、古い日本の風景をよく残した家並みのなかを旧道は進み、

二十分ほどで右に折れて県道を渡り、その隣りを沿うよう続く道に入ります。
“由井桜えび通り”と名付けられたこの旧道は、由比駅あたりからそうしたものを扱う店などが点在するなど開けていることから、このあたりが由比宿かと錯覚しそうになりましたが、ここの地名は今宿といい、めざす宿場はさらに行った由比川の先です。
その今宿には、「せがい造り」と云うこのあたり独特の造りの家が遺っています。

それは↑の写真のように、前へ出した軒先の屋根を支えるため、平軒桁に腕木を添えて垂木を置いたもので、要するに補強材を加えた造りのことです。
こうした見えにくいところで光る匠の技に、私は日本の伝統というものを見るのであります。

ここを過ぎると枇杷の木はいよいよ繁くなり、やがて間の宿があった倉沢へと、道は一気に下って行きます。

ここから西倉沢、東倉沢、寺尾と、古い日本の風景をよく残した家並みのなかを旧道は進み、

二十分ほどで右に折れて県道を渡り、その隣りを沿うよう続く道に入ります。
“由井桜えび通り”と名付けられたこの旧道は、由比駅あたりからそうしたものを扱う店などが点在するなど開けていることから、このあたりが由比宿かと錯覚しそうになりましたが、ここの地名は今宿といい、めざす宿場はさらに行った由比川の先です。
その今宿には、「せがい造り」と云うこのあたり独特の造りの家が遺っています。

それは↑の写真のように、前へ出した軒先の屋根を支えるため、平軒桁に腕木を添えて垂木を置いたもので、要するに補強材を加えた造りのことです。
こうした見えにくいところで光る匠の技に、私は日本の伝統というものを見るのであります。