迦陵頻伽──ことだまのこゑ

手猿樂師•嵐悳江が見た浮世を気ままに語る。

カミカゼ傳説のユクエ。

2025-02-05 19:23:00 | 浮世見聞記
國學院大學博物館にて、文永の役──いはゆる“元寇”から七五〇年目に因んだ特別展「絵詞に探るモンゴル襲来─『蒙古襲来絵詞』の世界─」を、三期通して觀る。



肥後國御家人の竹崎季長が鎌倉幕府から恩賞を得るための証明として、蒙古相手に奮戰した様を描かせた「蒙古襲来繪詞」は皇居三の丸尚藏館に収藏の原本のほか、

(※原本の「蒙古襲来繪詞」)

約四十點の模冩本が確認云々、ここでは細川藩士の手を離れたのち所有者を転々として菊池神社に収まった“菊池神社本”と、令和四年六月に埼玉縣の熊谷次郎直實の子孫とされる旧家で新發見の、成立年代など諸事情が不明な“根岸家本”の二點の模冩本を比較展示する。

(※同)

後年の模冩はそれぞれに事情や繪師の感性によって原本とは異なる風合ひを持つものであり、両者を並べて相違點を指摘する“間違ひ探し”は、意味が無いと思ふ。

(※海底の沈没船から發見された“てつはう”)

弘安、文永の二度にわたって九州を攻めて来た元軍は、いづれも折からの大型臺風により壊滅した、と私たちは學校の授業で習ったが、實際は二度目の文永ではその後も激しい海上戰が繰り廣げられたことは、後期に展示の繪詞に明白であり、そもそも「蒙古襲来繪詞」には暴風雨の場面そのものがない。

件の暴風雨は、たしかに二度にわたって蒙古軍に大打撃を與へたが決定打ではなく、またそれは竹崎季長をはじめ“現場”の武士たちにとって神風──「カミの加護」などと云ふ認識はなかったことを示す。

蒙古軍の撃退をさう捉えたのは神佛に恃んで加持祈禱を行なった僧たちであり、その認識は時代が下るにつれて“現場”を知らない者たちにより補強され、近代の愚戰に至っては特攻隊の名稱に冠されるなど國威發揚の好材料となって、都合よく完成される。

假にそれで大日本帝國が勝利したならば、いよいよ件の暴風雨は“神風”として歴史に創作されたことだらう。

正史とは常に勝者によって都合よく創られる、恐ろしく眉唾な噺なのだ。 


(※蒙古軍船の推定復元模型)


世界は變って、現代の角界では橫綱を蒙古人に席巻されて久しい。

鳴呼、カミカゼは吹かないかしらん。











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