そう言えば「劇団ASUKA」の面々のこと、話していませんでしたよね?
…あ、やっぱり。
一座には、わたしを別にして、七人いました。
座長の飛鳥武流さんと、“花形”の飛鳥琴音さんと、一座の“おかあさん”を自称している生田杏子さん―その訳はあとで…―と、あとは若い男の人が四人でした。
この人たちの経歴は、日々同行しているなかで少しづつ知ったことなんですけど、座長の飛鳥武流さんは北海道出身で、もともとはミュージカル俳優を目指していたらしいんですけど―バレエダンサーのような体型のわけが、それではっきりしました―、なかなか軌道に乗れなくて、様々な舞台をさまよっているうちに大衆演劇一座の「劇団飛鳥」と出会って、しばらく客演しているうちに“先代・飛鳥武流”に見込まれて一座の後継者となり、先代が老齢を理由に引退した際に“二代目”飛鳥武流を襲名したんです。
…はい、今の飛鳥武流は二代目なんです。
「劇団飛鳥」を「劇団ASUKA」とローマ字に改めたのもこの人で、いかにも外部からの中途採用の人らしく、襲名時に「マイナーなイメージの大衆演劇を改革する!」をスローガンに掲げて、その第一弾としてやったことが、これなんです。
でも、これが先代からずっと劇団にいるベテラン役者たちの反感を買って―『座長になったかどうか知らないけど、昨日今日の新入りがナニぬかしゃがる』って。そりゃそうですよね…―、全員が劇団から脱退してしまったんですって。
でもこの人の改革熱はそんなことで冷めるものではなく、むしろ「劇団を若返らせるチャンス!」と逆手にとらえて、若い役者たちをあちこちから呼び集めて、でも一人はベテランが欲しいということで生田杏子さんを招いて再結成されたのが、今の形なんです。
劇団名の頭に「新世紀大衆演劇」ってあるのは、マイナーチェンジしていくぞ!という思いと、メンバーが一新された、その二点が込められているわけなんです。
…って聞くと、なかなか立派なシゴトしているように感じるでしょ?
でもね、現実ってそう思い通り綺麗事にはいかないもんでしてね…、ま、それはまたあとにして、一座の花形として加入した飛鳥琴音さん―もちろん芸名、本名は最後まで知らずじまいでした―は、かつてはテレビや映画で“名子役”として沢山の作品に出演していたそうなんですけど…、ハイそうです、この顔写真の人…、見たことない…、やっぱり。いや、実はわたしも…。そうですよね、やはり“自称名子役”ですよね。あ、ゴメンナサイ。えーっとそれで…、あ、そうそう、かつては名子役ともてはやされていたものの、二十歳になった途端に急に仕事が無くなると云う、あまりにも典型的すぎる子役の末路を辿った末に、今の座長に拾われた、そういうことのようです。
だから拾ってくれた座長にはとても恩を感じていて、その崇拝ぶりにはスゴイものがありました。
ええ、演技はもちろん、舞台化粧なんかもそっくりでした。
演技同様、どの役もパターンが同じということ、上手いんだけど、綺麗じゃない、ってところまで…
化粧が上手いと云うことと、綺麗になると云うこととは、実は別モノであることを、わたしはこの人から学びました―ちゃんと稽古をしないでいると、あのように固まってしまうんでしょうね。
で、後の四人の男性たちはみんな二十代で…名前?チラシにありませんか…あ、ない。いやー、だとすると、覚えていないですね。殆ど印象に残らない人達だったんで…。
まァそれで、タレントとして成功することを夢見てそれぞれ地方から上京してきたものの、わたしと一緒で全然売れなくて、で、漂流の末に飛鳥武流のところに漂着した、と。
そして、わたしを劇団へ詐欺紛いに引っ張り込んだ生田杏子さん。
この人については前にちょこっとだけ話しましたけど、まぁご多分に漏れず、ってやつで、十九歳の時に戦前戦後の時代劇映画の大スターだった“鴎大治郎(かもめ だいじろう)”って方の弟子となって、京都の撮影所で“寝屋川鴎(ねやがわ かもめ)”と云う芸名で女優修業をしていたらしいんですけど、時代劇映画が衰退して、先生の鴎大治郎さんも亡くなると、「東京で成功してみせる!」と単身上京したものの…後は定番コース。
座長とは、お互いに東京を漂流している頃に小さな舞台公演で知り合って、その縁で「劇団ASUKA」へ“特に”招かれた、と杏子さん本人がよく言っていましたっけ。
十九と云う当時のわたしの年齢と、自分が女優の道に入った年齢とが同じということで、「他人とは思えへんわぁ…」と、“よく言えば”随分お世話になりましたけど、まぁ、後で具体的にお話しすることになると思うんですけど、けっこうKYなところがある人で、お世辞にも性格のいい方とは言えませんでしたね。
そうです。
「劇団ASUKA」と云う大衆演劇一座は、あなたの仰有る通り、“モノになり損ねた”、でも役者を辞めることはできない、そんな人達の寄せ集めの集団でした。
だからでしょうか、東京のメディアにのって活躍している人々に対しては拭いようのないコンプレックスを抱いているようで、それは彼らの楽屋などの会話からも感じられました。
彼らは、と言うか、飛鳥琴音さんがはよくわたしに、
『わたしたち大衆演劇はね、毎日の舞台を命懸けでやってんのよ!』
と言ってましたけれど、皆さんの経歴を知った後では、ここでしくじったらもう役者として後がないんだからそう云う気分にもなるわよね…、なんて、反感と、ちょっと哀れな気分になったりもしました。
〈続〉
…あ、やっぱり。
一座には、わたしを別にして、七人いました。
座長の飛鳥武流さんと、“花形”の飛鳥琴音さんと、一座の“おかあさん”を自称している生田杏子さん―その訳はあとで…―と、あとは若い男の人が四人でした。
この人たちの経歴は、日々同行しているなかで少しづつ知ったことなんですけど、座長の飛鳥武流さんは北海道出身で、もともとはミュージカル俳優を目指していたらしいんですけど―バレエダンサーのような体型のわけが、それではっきりしました―、なかなか軌道に乗れなくて、様々な舞台をさまよっているうちに大衆演劇一座の「劇団飛鳥」と出会って、しばらく客演しているうちに“先代・飛鳥武流”に見込まれて一座の後継者となり、先代が老齢を理由に引退した際に“二代目”飛鳥武流を襲名したんです。
…はい、今の飛鳥武流は二代目なんです。
「劇団飛鳥」を「劇団ASUKA」とローマ字に改めたのもこの人で、いかにも外部からの中途採用の人らしく、襲名時に「マイナーなイメージの大衆演劇を改革する!」をスローガンに掲げて、その第一弾としてやったことが、これなんです。
でも、これが先代からずっと劇団にいるベテラン役者たちの反感を買って―『座長になったかどうか知らないけど、昨日今日の新入りがナニぬかしゃがる』って。そりゃそうですよね…―、全員が劇団から脱退してしまったんですって。
でもこの人の改革熱はそんなことで冷めるものではなく、むしろ「劇団を若返らせるチャンス!」と逆手にとらえて、若い役者たちをあちこちから呼び集めて、でも一人はベテランが欲しいということで生田杏子さんを招いて再結成されたのが、今の形なんです。
劇団名の頭に「新世紀大衆演劇」ってあるのは、マイナーチェンジしていくぞ!という思いと、メンバーが一新された、その二点が込められているわけなんです。
…って聞くと、なかなか立派なシゴトしているように感じるでしょ?
でもね、現実ってそう思い通り綺麗事にはいかないもんでしてね…、ま、それはまたあとにして、一座の花形として加入した飛鳥琴音さん―もちろん芸名、本名は最後まで知らずじまいでした―は、かつてはテレビや映画で“名子役”として沢山の作品に出演していたそうなんですけど…、ハイそうです、この顔写真の人…、見たことない…、やっぱり。いや、実はわたしも…。そうですよね、やはり“自称名子役”ですよね。あ、ゴメンナサイ。えーっとそれで…、あ、そうそう、かつては名子役ともてはやされていたものの、二十歳になった途端に急に仕事が無くなると云う、あまりにも典型的すぎる子役の末路を辿った末に、今の座長に拾われた、そういうことのようです。
だから拾ってくれた座長にはとても恩を感じていて、その崇拝ぶりにはスゴイものがありました。
ええ、演技はもちろん、舞台化粧なんかもそっくりでした。
演技同様、どの役もパターンが同じということ、上手いんだけど、綺麗じゃない、ってところまで…
化粧が上手いと云うことと、綺麗になると云うこととは、実は別モノであることを、わたしはこの人から学びました―ちゃんと稽古をしないでいると、あのように固まってしまうんでしょうね。
で、後の四人の男性たちはみんな二十代で…名前?チラシにありませんか…あ、ない。いやー、だとすると、覚えていないですね。殆ど印象に残らない人達だったんで…。
まァそれで、タレントとして成功することを夢見てそれぞれ地方から上京してきたものの、わたしと一緒で全然売れなくて、で、漂流の末に飛鳥武流のところに漂着した、と。
そして、わたしを劇団へ詐欺紛いに引っ張り込んだ生田杏子さん。
この人については前にちょこっとだけ話しましたけど、まぁご多分に漏れず、ってやつで、十九歳の時に戦前戦後の時代劇映画の大スターだった“鴎大治郎(かもめ だいじろう)”って方の弟子となって、京都の撮影所で“寝屋川鴎(ねやがわ かもめ)”と云う芸名で女優修業をしていたらしいんですけど、時代劇映画が衰退して、先生の鴎大治郎さんも亡くなると、「東京で成功してみせる!」と単身上京したものの…後は定番コース。
座長とは、お互いに東京を漂流している頃に小さな舞台公演で知り合って、その縁で「劇団ASUKA」へ“特に”招かれた、と杏子さん本人がよく言っていましたっけ。
十九と云う当時のわたしの年齢と、自分が女優の道に入った年齢とが同じということで、「他人とは思えへんわぁ…」と、“よく言えば”随分お世話になりましたけど、まぁ、後で具体的にお話しすることになると思うんですけど、けっこうKYなところがある人で、お世辞にも性格のいい方とは言えませんでしたね。
そうです。
「劇団ASUKA」と云う大衆演劇一座は、あなたの仰有る通り、“モノになり損ねた”、でも役者を辞めることはできない、そんな人達の寄せ集めの集団でした。
だからでしょうか、東京のメディアにのって活躍している人々に対しては拭いようのないコンプレックスを抱いているようで、それは彼らの楽屋などの会話からも感じられました。
彼らは、と言うか、飛鳥琴音さんがはよくわたしに、
『わたしたち大衆演劇はね、毎日の舞台を命懸けでやってんのよ!』
と言ってましたけれど、皆さんの経歴を知った後では、ここでしくじったらもう役者として後がないんだからそう云う気分にもなるわよね…、なんて、反感と、ちょっと哀れな気分になったりもしました。
〈続〉