和田宿は東からの旅人が目前の和田峠越えに備えた宿場として、西からの旅人が無事に和田峠を越えてホッと息をついた宿場として、そして参勤交代の大名が必ず泊まった宿場として、大いに繁盛していました。
しかし、皇女和宮の宿泊が既に決まっていた文久元年(1861年)3月10日、一軒の民家から出た失火が瞬く間に宿場の大半を舐め尽くし、
「これじゃとても、和宮さんをお迎え出来ないんで…」
と幕府に一行の宿泊地変更を願い出たところ、
「今さらダメだって!ほら、コレで何とかしてくれよ…」
と、復興支援金として大枚のお金を“借して”くれたこともあり、一同力を合わせて大急ぎで復旧工事に取り組み、何とか11月6日の当日に間に合わせた、と云う涙ぐましいエピソードがあります。
そんな努力の結晶は、現在も旧本陣をメインとする一帯に大切に保存されています。
しかし、大金を借し付けてまで復旧工事をさせた皇女の嫁ぎ先が、それからわずか6年後に崩壊したことを知った時、工事に携わった人々は一体どう思ったことでしょう…?
脇本陣近くの“よろずや”で食べ物を確保して和田宿を出発、石碑だけが残る一里塚跡から数百メートルだけ残る旧道を通り、
歩道どころかそれに代わるスペースも、側道すらもない国道142号線を、猛スピードで脇を駆け抜ける大型トラックに本気でヒヤヒヤしながら歩くこと約30分、やっと歩道のあるエリアに差し掛かり、そして「扉峠口」バス停前の廃業したドライブインの駐車場でようやく冷や汗を拭い、藁葺き屋根が珍しいバス停待合所で小休止した後、
「さぁ、行こう!」
しかし、皇女和宮の宿泊が既に決まっていた文久元年(1861年)3月10日、一軒の民家から出た失火が瞬く間に宿場の大半を舐め尽くし、
「これじゃとても、和宮さんをお迎え出来ないんで…」
と幕府に一行の宿泊地変更を願い出たところ、
「今さらダメだって!ほら、コレで何とかしてくれよ…」
と、復興支援金として大枚のお金を“借して”くれたこともあり、一同力を合わせて大急ぎで復旧工事に取り組み、何とか11月6日の当日に間に合わせた、と云う涙ぐましいエピソードがあります。
そんな努力の結晶は、現在も旧本陣をメインとする一帯に大切に保存されています。
しかし、大金を借し付けてまで復旧工事をさせた皇女の嫁ぎ先が、それからわずか6年後に崩壊したことを知った時、工事に携わった人々は一体どう思ったことでしょう…?
脇本陣近くの“よろずや”で食べ物を確保して和田宿を出発、石碑だけが残る一里塚跡から数百メートルだけ残る旧道を通り、
歩道どころかそれに代わるスペースも、側道すらもない国道142号線を、猛スピードで脇を駆け抜ける大型トラックに本気でヒヤヒヤしながら歩くこと約30分、やっと歩道のあるエリアに差し掛かり、そして「扉峠口」バス停前の廃業したドライブインの駐車場でようやく冷や汗を拭い、藁葺き屋根が珍しいバス停待合所で小休止した後、
「さぁ、行こう!」