
謡ひには、強く謡ふ“強吟”と、柔らかく謡ふ“弱吟”の二通りがある。
今日、国立能楽堂で観た観世流の「源氏供養」は、クセの半ほどからその二つの謡ひ方がない交ぜとなって展開していくところに、音楽としての妙がある。
なにしろ、光源氏の供養をしなかったがために地獄へ堕ちて苦しみに遭っていると僧に訴える紫式部が、実は石山観音の化身であり、「源氏物語」は、じつは現世が“夢の世”であることを人々に知らせるための方便として書いた―
と、現代人にはさっぱり理解できなゐことを説ゐている曲だ。
これは、室町時代当時の人々の、仏教的発想が下敷きになっているらしゐが、言語的な理解が難しゐ故に、わたしは謡曲の節附けに、楽しみを見出だすのである。
その前には会主が、「遊行柳」の仕舞をつとめる。
極限まで抑制された動きで、観る者を惹き付けてやまなゐそれは、技術だけで出来るものではない。
人生と、芸の年輪とが、純粋に相俟って初めて体現されるものだ。
そして色合ひを抑えた金地の扇が、渋ゐ光を放つ。
曲の詞章や舞の意味など、もはやだうでもよゐ。
背筋の美しゐシテの舞姿に、ただ素直に魅入る―
やはり人生は、永ひはうが面白ゐやうだ。
今日、国立能楽堂で観た観世流の「源氏供養」は、クセの半ほどからその二つの謡ひ方がない交ぜとなって展開していくところに、音楽としての妙がある。
なにしろ、光源氏の供養をしなかったがために地獄へ堕ちて苦しみに遭っていると僧に訴える紫式部が、実は石山観音の化身であり、「源氏物語」は、じつは現世が“夢の世”であることを人々に知らせるための方便として書いた―
と、現代人にはさっぱり理解できなゐことを説ゐている曲だ。
これは、室町時代当時の人々の、仏教的発想が下敷きになっているらしゐが、言語的な理解が難しゐ故に、わたしは謡曲の節附けに、楽しみを見出だすのである。
その前には会主が、「遊行柳」の仕舞をつとめる。
極限まで抑制された動きで、観る者を惹き付けてやまなゐそれは、技術だけで出来るものではない。
人生と、芸の年輪とが、純粋に相俟って初めて体現されるものだ。
そして色合ひを抑えた金地の扇が、渋ゐ光を放つ。
曲の詞章や舞の意味など、もはやだうでもよゐ。
背筋の美しゐシテの舞姿に、ただ素直に魅入る―
やはり人生は、永ひはうが面白ゐやうだ。