ラジオ放送の觀世流「鵜飼」を聴く。
安房國清澄を立って甲州石和まで来た旅僧──日蓮を暗示してゐる──は、かつて禁制の漁を行なった罰として地元民に殺された漁師の靈と出會ひ、法華經の功力をもって成佛に導く──
石和に着いたワキ方がつとめる旅僧は、狂言方がつとめる地元の男に一夜の宿を乞ふが、旅人禁制の“掟”を楯に斷られたので、川沿ひのお堂に泊まることにすると、地元の男があそこは夜な夜な怪異が起きるから止めたはうがよいと留めるのを、「法力で應じる」と云ひ捨てて去っていくひねくれぶりを見せる面白い一場が、今回のやうな素謠ではまるまる省略されるは惜しい。
ちなみにこの日蓮を暗示した旅僧、このあと件のお堂で鵜飼男の靈が消えてから再會した先の男に、「まだゐたのか」と云はれたのに對し、「あなたが宿を貸さないからだ」とイヤミたっぷりに返す件りもあり、原初には能と狂言はひとつの藝能であったと云ふ面影を、なんとなく傳へてゐるやうに、私には感じる。
この謠ひには、“羽衣傳説”ゆかりの三保の松原まで日帰り旅行して稽古した、そんな思ひ出がある。
いま思へば、改めて傳統藝能の道を學んで行かうと再出發を図って間もない、まだまだ手探りだった時代のあまりに付け焼き刃な行動で、それがゆゑにいまや節回しなど、全く記憶してゐない。
だが、いまかうしてその行動の記憶は話せるのだから、さほどムダではなかったのだらう。