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JR水戸線を利用して、數十年ぶりに茨城縣結城市に遺るかつての領主、結城家の墓所を訪ねる。
源頼朝の隠し子と稱した初代朝光以降、關東武士の名門として波瀾萬丈の中世をあの手この手で生き延びてきた結城家は、十七代晴朝が養子として迎へた德川家康の次男秀康(十八代)の子の代になって“松平”姓となったため、自然消滅してしまふ。
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(※慈眼院跡の結城家御廟。初代朝光から十六代政勝までの供養塔が集まる)
慶長六年(1601年)に結城秀康は越前福井へ國替へとなり、晴朝の代まで死守してきた結城の地を一家中で離れることになった挙げ句、結城の家名まで消滅とあっては、晴朝の心中やいかばかり──
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(※十二代持朝の供養のため十三代成朝が建立した乗國寺に遺る結城家縁者の墓)
家名とはその人の生きる誇りであり、それが失はれる辛さは、私も經験してよく知ってゐるつもりだ。
結城家の拠點であった結城城は慶長六年(1601年)に城主が越前福井への國替後に廢城となったが、約百年後の元禄十三年(1700年)、水野勝長が入部して再興され、明治維新に至る。
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いかにも空堀跡とわかる深い溝を越えた先に広がる公園がかつての本丸跡だが、それらしき面影は全くない。
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ベンチで休憩しながら、結城家の松平改姓は、實は落ち度がないゆゑの体の良い“お取り潰し”のやうなものだったのではないか、などと、素人考へを逞しくしてみた。