深谷宿を出発して歩くこと約1時間20分、大里郡岡部町で国道17号線から離れ、やがて庚申塔を過ぎ、手書きの小さな標識がなければそのままの通り過ぎてしまいそうな細い道へ右折すると―それが正規の旧中山道、事実、資料の地図を見ていながら道を間違えて引き返しました…―、左手に「八坂神社」という小さなお社、その脇の坂を下っていると、左手の斜面に夥しい数の庚申塔が並んでいるのが目に入ります↑。
これを「百庚申」と云い、1860年(万延元年)に地元の有志13人が翌年にかけてつくったものだそうです。
1860年は“桜田門外の変”が起きるなど、国情不安定の真っ只中、そんな時だからこそ、民衆は神仏の力にお縋りしたかったのだろう、とのことです。
坂を下ると目の前を走る国道によって旧街道は途切れますが、かつての道筋に沿って国道を横断し、田んぼのなかの舗装道路を行くと、小山川に架かる橋に出ます↓。
かつての道筋は橋のすぐ左で、浅瀬のためかそのまま歩いて渡ったようです。
橋は「滝岡橋」と云い、現在のものは昭和3年に竣工、両岸の地域交流の文字通り“橋渡し”役となり、平成20年に国の有形文化財に指定されました。
ただ、歩行者レーンが無いため、車が来ぬうちにと急いで渡り、渡ってすぐの道筋が民家で潰されているため橋から続く道を迂回、元小山川に沿ってしばらく歩き、仏堂を建てて道案内をしたのがその地名の起こりと伝えられる「傍示堂(ぼうじどう)」という地区で左折して川を、そのすぐ先では国道17号線を渡り、「御堂坂(みとざか)」と云うなだらかな坂を上ると、そろそろ本庄宿です。
これを「百庚申」と云い、1860年(万延元年)に地元の有志13人が翌年にかけてつくったものだそうです。
1860年は“桜田門外の変”が起きるなど、国情不安定の真っ只中、そんな時だからこそ、民衆は神仏の力にお縋りしたかったのだろう、とのことです。
坂を下ると目の前を走る国道によって旧街道は途切れますが、かつての道筋に沿って国道を横断し、田んぼのなかの舗装道路を行くと、小山川に架かる橋に出ます↓。
かつての道筋は橋のすぐ左で、浅瀬のためかそのまま歩いて渡ったようです。
橋は「滝岡橋」と云い、現在のものは昭和3年に竣工、両岸の地域交流の文字通り“橋渡し”役となり、平成20年に国の有形文化財に指定されました。
ただ、歩行者レーンが無いため、車が来ぬうちにと急いで渡り、渡ってすぐの道筋が民家で潰されているため橋から続く道を迂回、元小山川に沿ってしばらく歩き、仏堂を建てて道案内をしたのがその地名の起こりと伝えられる「傍示堂(ぼうじどう)」という地区で左折して川を、そのすぐ先では国道17号線を渡り、「御堂坂(みとざか)」と云うなだらかな坂を上ると、そろそろ本庄宿です。