dmenuニュースより
http://topics.smt.docomo.ne.jp/article/mainichi/entertainment/mainichi-20240131k0000m200354000c?fm=d
1月31日午前2時57分、肺炎のため都内の病院で、事實上文樂最後の大看板が亡くなる。
私は咲太夫師の浄瑠璃を聴いた回數はごく僅かだが、たしか赤塗りの見臺(けんだい)を前へ据ゑて、“床”がぐるりと回って現れただけで、すでに圧倒的な重厚感が漂ってゐたことは憶へてゐる。
むしろ、私の師匠と分野を超えて親しかった方、としての印象のはうが強い。
もちろん私などは面識はなかったが、昭和五十年代、師匠が大阪で「假名手本忠臣蔵」の大役に抜擢された際、咲太夫師に役の教へを乞ふたことが、親交の始まりだったやうに記憶してゐる。
それから年月を經て、師匠が今度は國立劇場で企画された近松半二の大作で老女の難役に起用された際には再び教示を願ひ、「細かく考へると底を割ってしまふから、デンと大きく構へて臨んだはうがよい」と励まされた云々、師匠が千穐樂に國立劇場賞に輝いたのは、咲太夫師の助力のおかげでもあったらう。
昭和平成の文樂を牽引してきた巨星の最後が亡くなり、その“空席”を埋められるほどの人財も見當たらぬ現在の文樂やいかに──
などと、外野などが案ずるには及ばぬ。
いま滅亡してゐないならば、殘った面々でそれなりにやっていくだらう。
だいたい組織とは、さういふものだ。
合掌