ラジオ放送で、金剛流の「江口」を聴く。
古へに摂津國江口を訪れた西行法師と當地の遊女が和歌をやりとりした足跡を導入部に、苦界のつとめもやがて“諦め”となることでそれが悟りとなり、やがて遊女は普賢菩薩へと昇華する──
普賢菩薩は人間に試練を與へることで極樂浄土への道を示す佛さま、と聞いたことがある。

この曲では、遊女のつとめが與へられた“試練”であり、さうした我が身の境遇への“あきらめ”が、すなはち“さとり”である──
壮大な曲趣に眩まされて拒絶反應を起こしさうな能だが、遊女と云ふ俗世の最たる身分を例にとり、猿樂の後援者だった權力知識階級向けに綺語をちりばめながら、實は“悟り”の本質を誰にでもわかりやすく説いてゐる。
さう気が付いてから俗世を見渡して、

朝からすでに夜な表情(かお)をした人々を眺めて、なるほどアレが“悟り”なのかと知る。