しばらく行くと道の右手に、約1㌔南方にある「土師神社」への古い道標があることから、やはりこの道は何かの古道であることは確かのようです。
道標の先で土師神社方面からの道と合流し、右手に諏訪神社を見て過ぎると、いよいよ藤岡市街―児玉街道の終点である、かつての藤岡宿に(上段写真)。
時計を見ると、児玉宿を過ぎた先で見つけたあの道標から、1時間30分。
途中、神流川における迂回に30分ほどかかったので、その余計な分を除けば、ほぼ定足で歩いたことになります。
ここは当時から営業を続けているらしい旅館があるなど(上段写真左手)、児玉街道十一宿のなかでは最も旧宿場町らしい賑やかさが残っています。
さて、川越宿から始まる中山道脇往還「児玉街道」はここまで。
道筋は現存すれど、現在では7本の国道や県道に分断整備されて「児玉街道」と云う名称の一本の道としては存在していないため、旧街道としての面影はもはや残ってはいないだろうと思っていましたが、実際に訪ねてみれば旧道が所々に残り、また道沿いには旅人の守り神である庚申塔や道祖神が)が多く残っていて、現在(いま)も道行く人を見守り続けていました。
また旧宿場跡はかつての姿こそ消滅すれど、“枡形”に象徴される往年を偲ばせる雰囲気がまだ微かに残っている所もあるなど、実際に歩いてみなければわからないことばかりの、予想以上に収穫の多い、楽しい探訪となりました。
中山道へは、藤岡宿からそのまま続いている「藤岡道」(現在の県道40号線)と云う古道を通って、新町宿へと入ります。
旧宿場のほぼ中心地にある「4丁目」交差点の角には、藤岡宿から近隣の主要町村までの距離を示した大正4年11月10日建立の大きな「里程標」があり、
それによれば、新町宿までは一里四町とのこと(ちなみに東京までは二十五里とありました。つまり、約100㌔!)。
と云うことは、中山道新町宿までは約1時間で行くことが出来そうです。
交差点の向かいの角には、半分土中に埋もれた「藤岡道路原標」があり、
ここを旧「藤岡道」の起点として、約4㌔先の中山道新町宿までの残りの道を、引き続き歩いてみることにします。
道標の先で土師神社方面からの道と合流し、右手に諏訪神社を見て過ぎると、いよいよ藤岡市街―児玉街道の終点である、かつての藤岡宿に(上段写真)。
時計を見ると、児玉宿を過ぎた先で見つけたあの道標から、1時間30分。
途中、神流川における迂回に30分ほどかかったので、その余計な分を除けば、ほぼ定足で歩いたことになります。
ここは当時から営業を続けているらしい旅館があるなど(上段写真左手)、児玉街道十一宿のなかでは最も旧宿場町らしい賑やかさが残っています。
さて、川越宿から始まる中山道脇往還「児玉街道」はここまで。
道筋は現存すれど、現在では7本の国道や県道に分断整備されて「児玉街道」と云う名称の一本の道としては存在していないため、旧街道としての面影はもはや残ってはいないだろうと思っていましたが、実際に訪ねてみれば旧道が所々に残り、また道沿いには旅人の守り神である庚申塔や道祖神が)が多く残っていて、現在(いま)も道行く人を見守り続けていました。
また旧宿場跡はかつての姿こそ消滅すれど、“枡形”に象徴される往年を偲ばせる雰囲気がまだ微かに残っている所もあるなど、実際に歩いてみなければわからないことばかりの、予想以上に収穫の多い、楽しい探訪となりました。
中山道へは、藤岡宿からそのまま続いている「藤岡道」(現在の県道40号線)と云う古道を通って、新町宿へと入ります。
旧宿場のほぼ中心地にある「4丁目」交差点の角には、藤岡宿から近隣の主要町村までの距離を示した大正4年11月10日建立の大きな「里程標」があり、
それによれば、新町宿までは一里四町とのこと(ちなみに東京までは二十五里とありました。つまり、約100㌔!)。
と云うことは、中山道新町宿までは約1時間で行くことが出来そうです。
交差点の向かいの角には、半分土中に埋もれた「藤岡道路原標」があり、
ここを旧「藤岡道」の起点として、約4㌔先の中山道新町宿までの残りの道を、引き続き歩いてみることにします。