ラジオ放送の寶生流「蟻通(ありどおし)」を聴く。

紀貫之が和泉國で、蟻通神社の前と氣が付かず乗馬のまま通らうとして馬が倒れ、そこへ現れた老神職から謂れを聞いた紀貫之はお詫びの和歌を一首詠んで神前に奉げると異變はおさまり、老神職は蟻通神社の御神体であると正体を明かして、言祝ぎ舞ふ──
能ではお馴染みの和歌禮賛曲で、ここではその實例を示す、いかにも知識階層(インテリ)受けを狙った世阿彌の一曲。
心から出たコトバのチカラは、神の心をも動かす──
かつて和歌には特別な力が内在すると考へられてゐた時代を傳へる曲であり、その點を押さえておかないと、かうした和歌のご利益云々系の曲では、日本語なのに日本語がわからない、したがって見所(客席)で時計ばかりが氣になると云った、拷問に悩まされることになる。
もっとも、さういふご利益をゆったり語られると、私はたちまち夢見心地にさせられる。
“触らぬ神にタタリなし”
私はこの曲は、避けて通らん。