![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/8d/43f35973236ddc37b66159c6673552a8.jpg)
川越街道は、日本橋から約10㌔、板橋宿内の“平尾宿”から分かれて現在の東京都板橋区、練馬区、埼玉県和光市、朝霞市、新座市、ふじみ野市を通って城下町の埼玉県の川越市街地へと至る、全長約50㌔の街道で、中山道の「脇往還(わきおうかん)」として1639年(寛永16年)、川越藩主松平信綱、輝綱によって整備されました。
「脇往還」とは五街道の脇道のこと。
川越街道の場合、本道の中山道が河川の氾濫による川止めでよく通行不能になったため、その際の抜け道として、また庶民が参勤交代の大名行列を避けるためにも利用するなど、中山道より行程が短かったこともあって整備当初から通行量が多く、五街道に次ぐ賑わいを見せていました。
ちなみに、当時は「川越往還」と呼ぶのがふつうで、「川越街道」と呼ぶようになったのは明治時代から。
この中山道の脇往還は、川越から先は「児玉街道」と云う名称となって現在の埼玉県の中央部を北西に抜け、上野国藤岡(現 群馬県藤岡市)へと至っていました。
この二つを合わせて、「川越児玉往還」といいます。
そして藤岡からは、「藤岡道」となって、中山道の新町宿で合流するのです。
―と言うわけで、旧中山道探訪の“番外編企画”(?)として、中山道の脇往還「川越街道」を歩いてみます。
現在の川越街道は、東京都豊島区東池袋一丁目「六ツ又陸橋交差点」を起点とする国道254号線がそれに当たりますが、旧道、すなわち本来の道は、前述の通り板橋宿内“平尾宿”の追分↓が起点。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/24/9b/eecf202da2c62e082e4cee41c3c00443.jpg)
左手の、上を首都高が走る大通りが国道17号線の現中山道、右手に見えるアーチが旧中山道“仲宿”への入口。
旧川越街道は、この国道17号線中山道と約200㍍共行し、板橋2丁目信号で右へカーブする国道と別れて直進、“四ツ又通り”と云う約300㍍ほどの道に入ると、板橋宿と高田・雑司ヶ谷を結ぶ古道「高田道」との交差点“四ツ又交差点”↓
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/79/a0/4b8ecfa5958654c53a67eaf1cab090e7.jpg)
を過ぎ、そのすぐ先で山手通を越えて、板橋区大山東町へと入って行きます。
「脇往還」とは五街道の脇道のこと。
川越街道の場合、本道の中山道が河川の氾濫による川止めでよく通行不能になったため、その際の抜け道として、また庶民が参勤交代の大名行列を避けるためにも利用するなど、中山道より行程が短かったこともあって整備当初から通行量が多く、五街道に次ぐ賑わいを見せていました。
ちなみに、当時は「川越往還」と呼ぶのがふつうで、「川越街道」と呼ぶようになったのは明治時代から。
この中山道の脇往還は、川越から先は「児玉街道」と云う名称となって現在の埼玉県の中央部を北西に抜け、上野国藤岡(現 群馬県藤岡市)へと至っていました。
この二つを合わせて、「川越児玉往還」といいます。
そして藤岡からは、「藤岡道」となって、中山道の新町宿で合流するのです。
―と言うわけで、旧中山道探訪の“番外編企画”(?)として、中山道の脇往還「川越街道」を歩いてみます。
現在の川越街道は、東京都豊島区東池袋一丁目「六ツ又陸橋交差点」を起点とする国道254号線がそれに当たりますが、旧道、すなわち本来の道は、前述の通り板橋宿内“平尾宿”の追分↓が起点。
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左手の、上を首都高が走る大通りが国道17号線の現中山道、右手に見えるアーチが旧中山道“仲宿”への入口。
旧川越街道は、この国道17号線中山道と約200㍍共行し、板橋2丁目信号で右へカーブする国道と別れて直進、“四ツ又通り”と云う約300㍍ほどの道に入ると、板橋宿と高田・雑司ヶ谷を結ぶ古道「高田道」との交差点“四ツ又交差点”↓
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を過ぎ、そのすぐ先で山手通を越えて、板橋区大山東町へと入って行きます。