国立能楽堂で、金春流の「楊貴妃」を観る。
作者は、世阿弥の女婿であり、また崇拝者でもあった金春禅竹。
禅竹は、岳父が大成した“夢幻能”の世界に憧れ、自分も筆をとり、いくつもの作品を世に送った。
玄宗皇帝の命令で今は亡き楊貴妃の霊魂を捜し求めに出た方士が、常世の国蓬莱宮で彼女に出会うこの曲も、そのひとつ。
禅竹の偉業は、岳父の世界を手本としつつも、二番煎じに陥ることなく、岳父とはまた異なる独自の夢幻能を創り上げたところにある。
しかし、その世界観がわたしには難しく、禅竹の能を観たあとは決まって腕を組んで俯いてしまうのが常であった。
だが、方士が差し出す形見の簪を、楊貴妃が受け取り髪へ挿す姿に、わたしの心は方士と共に、いつしか常世の国に在ることに気が付いた。
再び卑語愚族の巷間へと戻り、気持ちを重くしたわたしは、禅竹がいかなる“夢幻”を想い描いていたのか、この時初めてぼんやりと、見えた気がした。
作者は、世阿弥の女婿であり、また崇拝者でもあった金春禅竹。
禅竹は、岳父が大成した“夢幻能”の世界に憧れ、自分も筆をとり、いくつもの作品を世に送った。
玄宗皇帝の命令で今は亡き楊貴妃の霊魂を捜し求めに出た方士が、常世の国蓬莱宮で彼女に出会うこの曲も、そのひとつ。
禅竹の偉業は、岳父の世界を手本としつつも、二番煎じに陥ることなく、岳父とはまた異なる独自の夢幻能を創り上げたところにある。
しかし、その世界観がわたしには難しく、禅竹の能を観たあとは決まって腕を組んで俯いてしまうのが常であった。
だが、方士が差し出す形見の簪を、楊貴妃が受け取り髪へ挿す姿に、わたしの心は方士と共に、いつしか常世の国に在ることに気が付いた。
再び卑語愚族の巷間へと戻り、気持ちを重くしたわたしは、禅竹がいかなる“夢幻”を想い描いていたのか、この時初めてぼんやりと、見えた気がした。