入江を埋め立てた造成地であった江戸の街は地下水が塩辛くて生活用水に適さないため、川から水を引く必要があり、承應二年(1653年)十一月十五日、約八ヶ月の工事で多摩川中流の羽村より取水して、四谷大木戸まで流れる上水道が開通──

(※昔日の玉川上水羽村取水口付近)
工事を請け負った庄右衞門と清右衞門の二人は幕府より玉川上水の永代管理者を仰せつかり、また“玉川”姓と帯刀も許される──
かくして江戸の街には四谷より地下水路によって真水が行き渡るやうになり、生活用水の不自由は解消された──
めでたし、めでたし──
でもなかったらしいその後の様子を、新宿區立新宿歴史博物館の特別展「江戸の水道 玉川上水」で觀る。

實際に開削工事を行なった庄右衞門・清右衞門のいはゆる「玉川兄弟」曰く、幕府より支給された工事費六千両は高井戸あたりの工事で底を尽き、あとは自腹の二千両と町屋敷の賣却で資金を賄ひ虎ノ門まで掘り進めた、とあるのに對し、工事担當官である普請奉行佐橋長門守は報告書でそれらには触れず、多摩川からの取水地で水が地中に吸ひ込まれて流れず失敗、計画を立て直して經路を變更したと記すなど、責任者と現場とで話しが異なってゐること、水路を掘った際に出た土で築いた堤の所有權を巡って、玉川家と流域十ヶ村とが揉めたり、江戸市中では水道料金(水銀)を拂はずに井戸を引く不届き者が出るなど、水をめぐるゴタゴタがなんとも生々しい。
安政三年(1856年)二月、玉川上水に沿って植ゑられた小金井の櫻並木のやうな景觀を狙って、

(※小金井の櫻並木)
内藤新宿でも櫻を植樹して新名所にしやうと計画されたが、

(※初代歌川廣重「玉川堤の櫻」)
幕府からケチがついて一ヶ月あまりで全て取り拂はれた事件など、現代でもあり得さうな無粋ぶりだ。
……ちなみに私が「玉川上水」と聞いてまず頭に浮かぶのは、昭和二十三年六月十三日に三鷹付近で愛人と入水自殺をした、太宰治のそれである。

(※入水跡地付近に建つ石碑「玉鹿石」、後ろの木立が玉川上水)
國語の教科書に載ってゐた「走れメロス」以外には讀んだこともなく、まただらしない生活ぶりだったこの物書きに興味もないが、深くもないはずの水路でどうやって絶命できたのか、そこだけが疑問に思ったものである。

(※JR三鷹驛付近を流れる玉川上水の現景)
が、知りたいとは思はぬ。
興味もない人ゆゑ。