ラジオ放送の觀世流「通盛」を聴く。
阿波鳴門の潮に消えた平家の公達とその愛妻の悲話で、死してなほ過酷な攻め苦に嘖まれる曲趣の二番目物に、通盛の愛妻と云ふ紅一點を添えて悲劇性を高めたところが世阿彌としてのミソだったやうだが、戰さといふ男が運命の真剣を交へる場に、妻とは云へをんなを連れ込んでメソメソする、かういふテのオトコは、私は好きではない。
弟の平知盛と云ふ、のちに死してなほ惡靈となって義經に襲いかからんとする獰猛な男からすれば、この期に及んでナニやってんだ、と叱りたくなるも、むべなるかな。
後世人の創意が加はってゐるにせよ、武人が武を忘れて優弱に堕ちやうと、必ず武人としての運命(さだめ)に裁かれる
──
大衆娯樂ではない能は、大衆娯樂のやうにパッと觀てわかるものでもない。
私は好きではないこの曲も、ラジオ放送でいろいろな演者の表現を聴いていくうちに、だんだんと聞こえてきたこゑである。
觀る人聴く人それぞれが世界を、作り浸れることの許されるところに、能に接する樂しみがあると、私は考へる。