川崎市平和館の特別展「沖縄戦と戦後の米国統治」を觀る。
第二次大戰最末期の大日本帝國が二言目には宣ってゐた、「本土決戰」がいかに悲惨なものになるかを如實に示した米國軍の沖縄上陸戰は、沖縄の人々のそれまでの生活文化を根底から破壊する序章であったことを、AIにより着色された記録冩真、そして謂れもなく戰火に巻き込まれた沖縄の一般の方々の証言より、ひとつひとつ聞き取っていく。
(※案内チラシより、以下同)
そして終戰後、米國軍はよその國からの干渉を受けることなくやりたい放題な軍事活動を展開するため、散々攻撃し破壊した沖縄の直接統治に乗り出し、高等辯務官を頭とする「琉球列島米國民政府」なる機関を置き、日本から沖縄を切り離すべく様々な政策をはじめる。
まず、“沖縄”と云ふ名稱は一切用ゐず、かつての尚氏王朝時代を思はせる“琉球”の名稱を徹底して用ゐ、また宣撫工作として、1959年に米國陸軍第七心理作戰部隊が無料の月刊廣報誌「守礼の光」を制作、1972年(昭和四十七年)の沖縄返還までの十三年間にわたり、米國軍の庇護下で着實に復興と發展を遂げていく“琉球”の姿を米国禮賛もたっぷりに織り込んだ、典型的なプロパガンダ誌云々。
誌上ではニッポン本土の情勢などは遮斷され、“琉球”独自の文化や藝能を絶賛する記事が多く組むことで“琉球人”としての独立性を刺激し、ニッポン本土(ヤマト)とは精神的にも斷絶させんと狙った先にあったのは、沖縄の人々を米國寄りにすべく情報を兵器に用ゐた恐ろしき洗脳攻撃にほからない!
その手立てとして沖縄の傳統文化や藝能を利用した米國とその軍を、私は生涯『米夷』と呼んで赦さないだらう。
しかし、このプロパガンダ誌の普及率は1%程度云々、心ある沖縄の人のなかには、抵抗を込めて破棄する人もいた云々。
それは、沖縄の人々が先祖代々守ってきた土地への思ひの深さ、強さにも通じ、土地問題はカネで解決する“經済問題”くらゐにしか考へてゐない米夷など、しょせん日本人の心とは相容れぬ侵略者以外の何物でもないと云ふことである。