迦陵頻伽──ことだまのこゑ

手猿樂師•嵐悳江が見た浮世を気ままに語る。

文明を見返る明日の戯伎(しばゐ)かな。

2024-11-21 19:00:00 | 浮世見聞記


東京では九月の「夏祭浪花鑑」以来、今度は「車引」で主演を張る坂東彦三郎を樂しみに、明治座の「十一月花形歌舞伎」昼の部を觀に行く。


私が日本橋濱町のこの劇場に足を運んだのは、ふた昔ほど前に故人加藤剛主演の「大岡越前」を觀に行って以来のやうに思ふ。


また、故人蜷川幸雄演出の芝居に出演してゐた師匠の樂屋へ、まだ弟子入り前に訪ねた思ひ出もあるこの劇場の客席に久しぶりに足を踏み入れると、緞帳の繪柄が音聲付きで動いてゐることに驚く。



解説によれば、文明開化期の當地の賑はひを、明治座の前身「喜昇座」を中心にデジタルテクノロジーで再現云々、これぞ令和の劇場文明かと、感心しながら開演を待つ。


さて序幕は目當ての「菅原傳授手習鑑 車引」、梅王丸は台詞の息が語尾まで持たぬきらいがあり、幕切れの反り身もやり過ぎだが、役への自覺と責任は感じられる。

櫻丸はメソメソしたかと思へば今度は聲(セリフ)がひっくり返るなど、およそ“むきみ隈”の役らしく見えない尻腰のなさ。

平名題扮する杉王丸、自分のセリフになると「さぁオレの出番だ!」と云はんばかりに張り切り出す空回りぶりが、いかにも抜擢された下回りらしくて面白い。


(※「天神記二枚錦繪 吉田社頭の場」 六代目菊五郎の舎人松王丸 昭和十二年一月歌舞伎座)

期待してゐた松王丸、梅と櫻を大きく引き離す伸び伸びとした荒事ぶりもさることながら、持ち前の豊かな聲量を活かして低音と甲音を自在に使ひ分けたセリフが痛快この上ない。


(※同 五代目歌右衞門の藤原時平公、六代目菊五郎の舎人松王丸、七代目幸四郎の舎人梅王丸、十五代目羽左衞門の舎人櫻丸)

藤原時平公は、かつて學生時分に何度となく聴き惚れた明瞭明快なセリフは今日(こんにち)も健在にて、あの聲の魅力が子息へ見事に受け繼がれたことは、歌舞伎にとって幸甚だ。


「一本刀土俵入」は六代目菊五郎の初演以来三代の當り藝で、今回ゆかりの四代目が挑む。

その亡父三代目の所演、前進座版、長谷川一夫主演の映画版も含め、何度か觀てきた芝居だが、取的くずれと酌婦のわずかな時間における心の交差が、十年の恩となって再び交差する静かな恩情詩を、今回初めてしみじみ味はふ。


(※「一本刀土俵入」 六代目菊五郎の駒形茂兵衞、六代目梅幸の酌婦おつた 昭和九年十一月歌舞伎座)

四代目の駒形茂兵衞は、生来の健康的な明るさが博打打ちに成り下がった男の心の屈託を見えにくくしてゐるものの、恩に報ひやうとする一途な男っぷりにおいては、成功してゐる。

やうするに、かういふ情でじわじわと攻めてくる噺は、觀る側もそれなりに浮世にさらされ“學問”を積んで、初めて理解できるもの、と云ふことか。


「藤娘」も樂しみにしてゐた景事だが、日本舞踊(をどり)のお名取サンじみたやけにウブな体たらく、


※(「藤娘」 六代目菊五郎の藤の精 昭和十二年三月歌舞伎座)

これならば前幕の「一本刀──」で帰っても悔しくはなかったナ、と案外な氣分で、相變はらず雲が不穏な人形町をいく。 








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