「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

          企業の海外進出と"空洞化"現象

2011-10-21 06:14:24 | Weblog
タイではアユタヤをはじめ各地で大洪水の被害が続出、首都バンコクの浸水も時間の問題だという。この大洪水でタイに進出している日系企業300社以上が生産中止に追い込まれている。対岸の火ではない。回りまわって、わが国経済にも影響が出始めている。が、これに対して日本の政府が何か救援とか援助の手を差し伸べたという話は聞いたことがない。大震災の復興でそれどころではないのだろうか。

この洪水被害で僕は改めて、日本国内で企業の"空洞化"現象を知った。300社も進出企業もあるのだから当然、在留邦人の数も多い。外務省領事局の統計(平成23年度)によると、タイ国内全体で4万人以上の日本人が長期滞在している。この数は米国、中国についで第4位で、このほかシンガポール、タイ、台湾、フィリピン、インドネシアなどアジア諸国に長期滞在、永久移住者が増えている。

先日、ある会合に出たら自動車企業のOBが、日本政府の輸出産業への対応の甘さを指摘し、このままでは"裾野の広い”自動車産業では、企業の"空洞化”がますます進んで行くと心配していた。部品を製造している、中小企業では国内ではやって行けず、労働力の安い国を求めて海外へ出かけてゆくという。確かに、”空洞化"現象は進んでいる。外務省領事局の統計では、平成22年10月現在で海外居住の日本人は長期滞在、永住者とも過去最多で1,414,357人である、10年前の平成12年には811,712人だったのだから、なんと60万人も増えている。

風評の域は出ないのだが、大震災のあと、個人的にも日本を脱出して海外に長期滞在する人も多くなっているという。この会合に出ていた一人の女性も実際に近くスペインへ家族で長期居住することを検討いている、と言っていた。ユーロー安の今がチャンスだからのようだ。日本国内の居住環境の悪化が、日本人の海外流出の数を増加させているのだろうか。いろいろと考えさせられる。

             二本松に”ひとめぼれ”

2011-10-20 05:48:25 | Weblog
収穫前の予備検査で放射能汚染が心配された福島県二本松産のお米が本検査では、すべて政府の暫定基準値を下まわり18日から出荷が始まった。二本松産のお米の主要銘柄は”ひとめぼれ”という。僕はこの”ひとめぼれ”に一目ぼれしている。早速、近くのお米屋さんに、いつ入荷するのか確かめた。

今年の大震災の前の2月、このブログで何度か紹介させて貰った田村市の老人施設「オリオンの郷」の施設長、インドネシア国籍の女医田中リナさんから"無農薬、天日干し、健康によい、人目ぼれした当地産のお米です”と”ひとめぼれ”が贈られてきた。田中先生が人目ぼれしたお米である。おいしい。早速一家で有り難く頂戴した。

昭和40年代に僕は二本松の隣の郡山に二年勤務したが、単身赴任の過労がたたってダウン、その疲れを癒したのが、市内の岳温泉であった。「智恵子抄」で有名な安達太良山と阿武隈山の風光明媚な町である。また会津若松とならんで二本松の霞ヶ城は戊辰の役の悲劇で知られる歴史の町でもある。今、霞ケ城では、日本三大菊人形展が11月13日まで開催中である。今年は大震災の関係で無料解放されている。

郡山在勤中は、週末には僕は東京に帰っていたが、その頃は新幹線がなく特急でも3時間かかった。その時の楽しみの一つは郡山駅で山菜弁当の駅弁を買って帰ることだった。当時はもちろん”ひとめぼれ”はなかったが、福島県産のお米のおいしかったこと。亡き母の山菜弁当を食べた時の嬉しそうな顔が今でも忘れららない。

            閣僚の沖縄"お百度参り”

2011-10-19 06:36:07 | Weblog
玄葉光一郎外相が昨日から沖縄を訪問、今日19日は仲井真弘多知事と会談する。17日には一川保夫防衛相が仲井真知事と会って普天間飛行場の移転候補地,辺野古のアセスメント(環境影響評価)を年内に提出旨伝えた。連日の閣僚の沖縄詣では今月下旬の米国のバネッタ国防長官の訪日を控えてのバタバタとしたお膳たてのように見える。

野田内閣の戦術はこうして関係閣僚を"すそ払い”にして"正心誠意”のあるところを見せ最後に総理が登場して辺野古移転を沖縄側に説得しようというものだ。辺野古移転は日米間の合意によるものであり、後には退けないものだが、鳩山元総理の"最低でも県外"発言や、その後の菅前総理の対応で問題をこじらせてしまった。このため、現地側は連日の閣僚訪問についても冷ややかだそうだ。

民主党政権が発足してから、この2年間に鳩山元総理が2回、菅前総理が3回、その他関係閣僚を含める合計18回も大臣が沖縄を訪れている。その度に行われる知事室での”かりゆし”姿同士の会見は、申し訳ないが鼻についてきた。

昔から"お百度参り”という風習がある。個人的にある一つの事を達成しようと思えば「願」(がん)をかけて一つの神社仏閣に百回参拝することである。辺野古移転の問題は後に退けない国際的な契約である。民主党政権が辺野古移転実現に「願」をかけたならば、やはりそれに向かって努力すべきである。”かりゆし”姿のお百度参りもよいが、それよりは、沖縄の人から"沖縄処分”と言われないように、心のこもった対応が必要だ。

             TPPのお化け退治

2011-10-18 05:13:12 | Weblog
来月12日から始まるAPEC(アジア太平洋経済協力会議)総会を前に、政府のTPP(環太平洋経済連携協定)交渉参加へのアクセルが一段と強くなってきた。野田総理は”TPP参加は日本にとってプラス”だとし、枝野経産相は"参加しなければ世界の流れに遅れてしまう”と言っている。この発言からみてTPP参加は間違いない。

しかし、民主党内には前原政調会長の言葉を借りれば”TPPお化け”論者がうごめいていて恐怖を煽っている、という。僕は別に”お化け"論者に肩を持つわけではない。世論調査も80%超の人がTPP参加を支持している。しかし、”お化け"論者の"おびえ”も解からないではない。農水省の試算では、日本が手放しでTPPへ参加すれば、農業総生産は4兆1千億円も減り、食糧自給率は14%も下がってしまうという。

TPPへの参加については、昨年の今頃も騒いでいた。同じAPEC総会を前にして前原外相(当時)が突如、耳慣れなかった「TPP」とい言葉を持ち出して"参加は政治的に待ったなしだ”と言い張った。待ったなしの問題が、大震災があったにせよ、1年間手付かずのまま放置されていて、ここへきてこの騒ぎである。

韓国の李明博大統領とオバマ米大統領とのFTA(自由貿易協定)調印のニュースを見れば、世界の趨勢はわかる。わが国はたしかにバスに乗り遅れてきた感じだ。前原氏の言うように、GDP僅か1・5%の農業のために95.5%の輸出産業を犠牲にはできない。しかし、1.5%だからといって、農業をを頭から切り捨てる訳にははいかない。"お化け退治”をするのならば、今一番必要なのは、日本農業をどうするのかーである。具体的な案を一日も早く示すべきだ。

        ジャカルタ最古の日本料理店主の死

2011-10-17 06:07:32 | Weblog
ジャカルタで最も古い日本料理店「菊川」の経営者、菊池輝武さん(92)が亡くなられた。「菊川」は1969年(昭和44年)、ジャカルタの中心のチキニに店開きした。ちょうどオバマ少年(大統領)が、両親に連れられてハワイからやってきた頃だ。以来「菊川」はジャカルタ在住の日本人にとって、故郷の味を楽しめる憩いの場として親しまれてきた。

菊池さんは佐賀県の生まれで、戦争中はバンドンにあった旧日本軍の兵器廠勤務の軍属だったが、そこで知り合ったセレベスのメナド出身の女性と結婚、戦後夫人を伴って日本に帰国した。昭和30年代から平成の初め頃にかけて、菊池さんは東京の六本木でインドネシア料理店「ブンガワンソロ」を経営していたが、1969年、渡航の自由化が許可になり、ジャカルタでも日本料理店を開いた。

菊池さんとインドネシアの初代大統領スカルノ家との交際は古く、戦争中にまでさかのぼるが、特に親しくなったのは「菊川」がオープンしてからだ。当時スカルノ氏は65年のクーデター未遂事件に関与していたという理由で大統領の座を追われなかば幽閉状態にあった。日本人の中にもスカルノ氏を避けていた人が多かったが、菊池さんは交際を続け、のちに第五代大統領になった、スカルノ氏の長女、メガワティさんが、庶民の足「べチャ」(三輪人力車)に乗って「菊川」にちょくちょく現れたのは有名な話だ。

菊池さんは義侠心の強い人だった(ジャカルタ勤務の長かった外交官の話)戦後インドネシアに残留した日本軍の軍人、軍属の会「福祉友の会」の会員ではなかったが、同会の創設者、故乙戸昇の親友で、物心ともに同会を援助してきた。しかし、決してこれを表にだして言う人ではなかった。僕はジャカルタに行けば必ず「菊川」に出かけ、菊池さんと話をするのが楽しみだったが、もうそれが出来なくなった。一つの時代が終わった。菊池さん、安らかに永眠ください。合掌。

        増えている自転車からみの交通事故

2011-10-16 07:10:10 | Weblog
東京都内で自転車にからむ交通事故が過去6年間で最高の勢いで増えているという。今年8月までの警視庁の統計では、全交通事故の37・8%が自転車が関係しているとのこと。膝の痛みで自転車に乗る機会の多い、僕にとっては人事ではない。今までも人一倍注意して運転していたが、いっそう気をつけることにしよう。

昨日"床屋談義"で、僕と同年齢の主人から、この話が出て、真っ先に話題になったのは"母子相乗り自転車”である。昨年あたりから、たしか相乗りは公認のものしか許可にならなくなった、聞いているが、わが町では相変わらず、普通の自転車に幼児二人、時には三人を乗せて走っている。僕も店の主人も相乗り自転車を見ると、特に気を配って徐行運転するが、若い母親は、そんなことにはお構いなくスピード運転して僕らをはらはらさせる。

東日本大震災の後東京では、自転車通勤が増加しているという。地震後自宅に戻れなかった教訓かららしいが、確かに多い。わが家の近くの環七や目黒通りにも朝晩の通勤時にはそれらしき若者の姿を見かける。渋滞した車の列を縫ってスイスイと走って行く。年寄りの僕にはと打て出来ない芸当であり、見るだけでもこわくなる。

10年ほど前だが、オランダを旅行して自転車道路が完備しているのに驚いた。わが国でも地方都市の中には立派な自転車道路があると聞く。たしかに自転車はCO2には無関係なエコーカーだが、東京では時には"凶器”にもなりかねない。老人にはとうてい自動車道などは知れない。歩道でさえ、若者は、ベルを鳴らさずスピードをあげて追い抜いて行く。関係当局は真剣に対策を考えて欲しいものだ。


      ”ラジウム騒動”は政府の放射能無策から

2011-10-15 06:33:40 | Weblog
東京世田谷の住宅街の区道から高い放射線量が検出されたという騒動は、何のことはない、福島原発事故とは、まったく関係のない古家の中にあったラジウム入りのビンが発生源であった。例えととしては少し悪いが、まさに"幽霊の正体見たり枯れ尾花”だ。だが、枯れ尾花であって本当によかった。本物のセシウムだったら大変なことだった。

"ラジウム騒動"の現場の弦巻は、わが家から直線距離では3キロぐらい。駅前から「弦巻」行きのバスに乗れば20分で行ける。昔、まだ足が丈夫だった頃は歩いて散歩したこともある。それだけに2・7マイクロ・シーベルトの線量が検出されたという一報に僕も老妻もびっくり。老妻は早速"このあたりは大丈夫かしら”と心配顔。セシウムが樹木に付着すると聞いて、近所の手入れをしていない庭の茂みを伐るように区役所に通告しようかと言ったりした。

放射線量の知識についは、老妻のことは笑えない。大方の国民も同じ程度のものだろう。原発事故から遠く離れていても線量の高い"ホット・スポット”があり、連日のように新聞は横浜で高いストロンチュームとか船橋(千葉)で最大1・55マイクロ・シーベルトのセシウムが検出されたとか伝えている。だから、老妻がわが家近くに"ホット・スポット”があると思っても不思議ではない。

"ラジウム騒動”が原発事故とは無関係だと判明した日、文科省は深夜にもかかわらず記者会見を開いて発表したという。文科省が首都圏東京の放射能汚染の報をいかに懸念していたかの証拠でもある。しかし、政府の放射線量と国民の健康との関係を司る役所がどこなのか、依然国民にははっきりしない。環境省なのか文科省なのかそれとも厚労省なのかー。政府の"放射能"無策は相変わらずだ。

      前原政調会長,「女性基金」失敗の轍を踏むな

2011-10-14 06:39:24 | Weblog
前原誠司民主党政調会長が先日、韓国の金外交通産相との会談で、戦時中の慰安婦問題について"人道的に考える余地がある”として「アジアの女性のための平和基金」を参考にして新たな基金構想の構築を示唆した。前原氏は一体全体、村山富市政権時代(平成5年)に始まり平成19年に終了した「アジアの女性のための平和基金」を検討し、結果がどうだったかを精査したことがあるのだろうかー。

この基金は、元はといえば韓国人女性を済州島から日本軍が強制連行したという虚偽の話を信じこみ、謝罪した当時の河野洋平官房長官談話から出発している。以来、代々の政府が民間に呼びかけ、合計で48億円を集め、韓国、フィリピン、台湾などの元慰安婦に、一人200万円支払い、日本の総理の謝罪文を出してきたが、平成19年、この基金によるインドネシアの老人ホーム建設事業が終了、解散している。

しかし、結果はどうだったのかー。肝心の韓国では、慰安婦と称する女性の大半が、日本政府の公式謝罪ではないとして、償い金の受け取りを拒否したままである。インドネシアでは、戦時中の慰安婦の存在については歴史的に検証できないという理由から,個人への償い金は断り、折角の日本からの申し出だとして3億8千万円を受け取り老人ホームの建設に当てた。

「アジアの女性のための平和基金」のインドネシア”の歴史を立証する”委員には、スマトラの第25軍司令部の防空壕で日本軍が労務者を大虐殺したという、虚妄を新聞に発表した後藤乾一早稲田大学教授、また自分の本に書いている倉沢愛子慶応大学教授が任命されている。この基金の過去の歴史的検証がいかにお粗末であるかは、これだけとっても明らかだ。前原氏が「アジアの女性のための平和基金」を参考にするというならば、過去の失敗の轍を踏まないでもらいたい。

            老後の生活は若い時から備えろ!

2011-10-13 05:33:33 | Weblog
年金開始時期を68歳から70歳にしては、という厚生労働省の審議会の一案が実施されるかどうかもわからないのに独り歩きして若い世代に恐慌を呼んでいるようだ。少子高齢化によってわが国の現在の社会保障制度が早晩、破綻するのは間違いない。その一環として現在年金の支給開始年齢を3年に1回ずつ引上げて65歳にする途上だが、厚労省審議会の一案にしても、開始年齢を68歳ー70歳というのは、あまりにも現実離れしている。

わが国では戦前から定年制度があり、僕が現役を離れる平成初め頃までは一般に55歳定年だった。今は公務員(一般職)を初め大方の企業は60歳定年である。政府は高年齢雇用安定法によって、定年を何とか65歳まで引上げようと努力しているが、厚労省の最近の発表では大企業で65歳延長に踏み切ったのは、僅か24%で、中小企業をいれてもまだ半数の企業が60歳定年である。しかし、一方においては年金の開始時期はやがて65歳に引上げれ、将来的にはもっと引上げられよう。この間の生活をどうするかが問題だが、これは今に始まったことではない。

戦前には公務員には恩給制度があったが、民間の企業には年金はなく、サラリーマンは老後の生活は自衛しなくてはならなかった。それが出来なければ、養老院という暗いイメージの老人施設で送らなければならなかった。でも、幸い戦前は家族制度が確立されていて大部分の高齢者は家族に見守られて一生を送ることが出来た。

わが家でも明治17年生まれの父親は昭和14年に定年を迎え退職しているが、当時の日記帳を調べてみると、定年数年前からそれに備えて老後の生活を母親と検討していた。商売も考えたこともあったようだが、商才のない父には無理で、結局郊外に土地を借りて家作を数軒建てて老後に備えた。

サラリーマン二世の僕も、門前の小僧で、老後の設計に入ったのは40歳代後半からであった。幸い、僕ら昭和1桁の世代までは”揺籃から墓場まで”の福祉哲学がまがりなりにも政策に反映していて、こうして何とか生活できている。やはり、頭から年金に頼らず、サラリーマンは若い時から老後に備えたほうがよい。

    「閉じこもり老人からの脱出」(4)総合検査に合格

2011-10-12 06:03:39 | Weblog
スポーツクラブに出かけてちょうど4か月経った。体調は上々である。昨日、かかりつけの医者で検査した「総合検査報告書」(血液検査)の結果が戻ってきた。尿酸値が7・3(基準は7・0以下)と若干高かった以外はすべてOKである。糖尿病と診断され、高かった血糖値(グルコース)も10・4、ヘモグロビンも4・9と正常値である。現役時を通じてこんな好結果は始めてだ。

左膝の痛みはまだ完全にはよくならないが、体重が約6キロダウンしたお蔭で足への負荷が減ったのだろう。痛みがやわらいできた。その結果、ほとんど外出は自転車に頼っていたのが、最近は歩いて買物に行くことが多くなった。それにつれて、老妻に指摘されていた”年寄り歩き”も,ある程度矯正されてきたようだ。

月末昔の会社のOB会が二つ予定されている。うち一つは場所が都心で夜の開催である。参加しようかどうか、ためらっていたが、どうやら行けそうだ。昨日、出席の返事をだした。この調子なら、もう諦めていた海外旅行もでかけることが出来そうだ。期限10年のパスポートはまだ3年残っている。

主治医によると、僕のようなタイプは、スポーツクラブで身体を鍛えると効果が出てくるのだそうだ。でも、”老人の冷や水”という喩えもある。まあまあ適当に鍛えることにしよう。”天高く馬肥ゆる秋”といっても老人には肥ることは禁物である。