「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

         戦中戦後を共に生きた親友の死

2011-10-11 05:36:17 | Weblog
戦中戦後のあの過酷な時代を共にした中学時代の親友K君が突然この世を去った。つい3か月前、体調を壊したが回復した旨電話があり、近く一緒に飲もうと約束していたのだが。寂しい限りだ。それにしても、このところ友人、知人の訃報が多い。80歳をすぎると残念だが、そういう”年頃”になってきたのかもしれない。

K君は60数年来の友人で、最近この20年は毎年1回は一緒に飲み、昔の話をするのを楽しみにしていたが、話はどうしても戦争中のことになる。敗戦直前、彼は僕とは別な所へ勤労動員されて国鉄(JR)の線路の電話線の補修事業に当たっていた。この時、彼は突然、敵機の機銃掃射にあい、危うく一命を失うところであった。もし、その時一命を失えば僕らの交遊はなかった。

K君は家庭の事情から大学へは進学せず、旧制中学5年を終えて社会に出た。一生”宮つかえ”だった僕とは違ってそれなりの苦労もあったとは思うが、自分で企業を起こし、亡くなるまで現役の社長であった。一国一城の主である。

子供だった僕は知らなかったが、彼は一家の家計を助けるため、学校の許可を得て週に数回、芝浦の東京港で進駐軍の荷役の重労働をしていた。彼ばかりではなく、当時は同じように進駐軍のキャンプで働いていた級友が多く、そのまま学校を辞めて行く者も多かった。そんな時代に僕らは部活で謄写版印刷の雑誌を発行した。

K君は雑誌の名前を「流れ」と命名した。僕はついに彼から、その命名の理由を聞くのを逸したが、彼の一生は考えると、企業人として流れを的確につかみ、その流れに乗るのが上手だった。明日の彼の告別式で僕は弔辞を頼まれた。僕は彼との想い出を語り「流れ」で結ぼうと考えている。


        「体育の日」 2020年東京五輪に向けて

2011-10-10 06:04:09 | Weblog
今日、10月10日は「体育の日」である。46年前の1964年のこの日は東京五輪の開幕日であった。東京は前夜来の豪雨で開幕が心配されたが、気象庁が”晴れの特異日”と太鼓判を押していただけに朝から見事に晴れ上がった。あの頃の日本は、この日の秋晴れのように国全体がすかっとしていた。巷には坂本九の「明日があるさ」や岸洋子の「夜明けの歌」がヒットしていた。

2020年の夏季五輪に再び東京が立候補している。東京の石原慎太郎知事は”老いの一徹”というか五輪開催に執念を燃やしている。2020年には僕は米寿を迎えるが、生存しておれば、僕も46年前のあの感激をもう一度味あいたいものである。

東京は2016年の大会にも立候補したがリオデジャネイロに負け招致に失敗している。失敗の原因の一つは、国をあげての盛り上がりが不足していたからさ。最後には当時の鳩山首相が重い腰をあげてIOC(国際五輪委員会)総会に出かけて招致運動をしているが、政権交替したばかりの民主党政権は、当時自公政権のものは”なんでも反対”で、五輪招致にはそっぽを向けていた。

1964年五輪の東京招致について調べてみたら、戦後すぐの1952年のヘルシンキ大会より招致運動は始まっており、1960年大会の立候補したが、ローマに負けている。まさに10年越しの招致への歴史があった。

2020年というと、まだ先のように思われるが、あと9年である。しかし、僕が見る限り日本国内での招致運動は今のところ前回に比べて低調だ。五輪開催による効果はすでに1964年五輪をはじめ、札幌、長野冬季五輪で証明されている。石原知事の”笛”だけでは開催はできない。招致運動を全国民的なものにして行きたいものである。

       イスラム女性のベールとノーベル平和賞

2011-10-09 05:53:16 | Weblog
今年のノーベル平和賞に中東イエメンの女性反政府活動家のタワックル・カルマンさん(32)がエレン・リーリーフ・リベリア大統領ら二人と共に選ばれた。選考の理由は民主化が遅れている地域で女性の地位向上に尽力したというものだ。いつも思うのだが、このノーベル平和賞は多分にジャーナリスティックな要素があるみたいだが、ベールをかぶったイスラム女性が選ばれたのは画期的だ。
 
イエメンはアラビア半島の北端にあり、隣国サウジアラビアと共に同じ中東諸国の中にあっても女性の地位は低い。つい最近もサウジアラビアでは、女性の車の運転が法で禁止されているにもかかわらず運転して、ムチ打ち刑に処せられそうになった。両国ともいまだに女性は「アバヤ」というい黒い衣装で人前ではマスクをして目以外は出さない。50年前、、僕はイエメンを取材し、その異様な姿にびっくり仰天したのを覚えている。

クワックル・カルマンさんは今年初頭より始まったサレハ(大統領)独裁政権反対運動に参加、6月には女性だけで街頭デモを展開しているジャーナリストだそうだ。最近までのイエメンでは考えも及ばなかった女性の活動だ。そのデモに参加したイエメンの女性たちは全員「アバヤ」姿か、あるいはそれに近く頭にはベールをしていた。

ご存知のように、フランスでは宗教スカーフ禁止法があって、公立学校へはベールをかぶって通学することが禁じられている。イスラムの掟「コーラン」では女性は髪と襟元を人前でさらす事は禁止されている。この宗教的なスカーフ禁止法をめぐって、最近イスラム移民が増加している西欧社会に色々波紋が広がっている。

ノーベル委員会が、西欧でのこの動きを意識してタワックル・カルマンさんに平和賞を授与したのかどうかはわからない。しかし、多分カルマンさんは授賞式には、伝統的なベール姿で現れるだろう。イスラム信仰と西欧的価値観にたつ民主化とは無関係なものだ。


              札幌の秋、東京の秋

2011-10-08 06:37:26 | Weblog
札幌の人口が100万人を越えた頃、約10年間、この町で暮らした。札幌の秋は早くて短い。10月の声を聞くと、街路樹のナナカマドの実が赤みを増し、住宅の庭には干し大根が散見されて一つの風物詩であった。そしてやがて藻岩山が錦に染まり、冬の使者、雪虫が飛び交うようになる。季節に鈍感な僕だが、今でも札幌の秋は脳裏に残っている。

その札幌の中心街に近い北海道神宮裏の住宅街にヒグマが出没しているという。当時のわが家は、神宮に近い「山の手」という地名にあり、休みの日など、よく小さかった子供を連れて、あのあたりの裏山に出かけたものだった。当時はとてもヒグマの出没など考えられなかった。何が原因なのだろうか。やはり、人口の急増で、ヒグマのかっての棲家が狭まってきたからなのだろうか。今、札幌の人口は40年間で190万人と倍増に近い。

季節感が喪失した東京では、最近はいつ秋がやってきて、去って行くのか判然としなくなった。出来秋といっても23区内では、稲穂のたれた姿など見られない。街路樹の銀杏も12月にならないと黄ばんでこない。そんな東京の秋だが、わずかに家の近く高台の庭の金木犀の花が黄ばみ、かすかな匂いを漂わせていた。(写真)子供だった頃の東京では、池上本門寺のお会式(10月13日)がくると寒くなる、といわれたものだが、地球の温暖化のせいなのだろうか変わってきた。

秋の日は”つるべ落とし”といわれ、長い夜は読書を楽しむものとされてきたが、加齢のためなのだろう。最近は、僅かな晩酌でもすぐ眠くなり、野球放送さえ最後まで聞かなくなった。人生が秋から冬に向かってきた証拠であろう。

            英霊を営利事業に使うな

2011-10-07 05:54:20 | Weblog
フィリピンで収集された英霊のご遺骨の半数以上が現地人のものだという疑いが出てきたという。このご遺骨はNPO(特定非営利団体活動法人)「空援隊」がミンドロ島などの激戦地で2010年に収集してきた7740柱だとのこと。厚生労働省は1957年からフィリピンで直接ご遺骨収集事業を行ってきたが、2005年には時間の経過による情報不足から24柱と減ったため2008年からは、これを民間に委託するようになった。

「空援隊」は2009年から、この事業に携わっているが、当初は年間100柱足らずだったご遺骨が7740柱と激増した。その収集のやり方に疑念が持たれ昨年10月には、NHKが「追跡!ATO2」という番組で批判した。以来「空援隊」の”広告塔”ともいわれてきたアルピニストの野口健氏も自分のブログで「空援隊」との無関係を表明している。「空援隊」は理事長に自民党の元代議士、顧問にはその会長に阿倍知子氏(民社党)副会長には漆原良夫氏(公明党)、それに現職の閣僚二人が名を連ねている。

厚労省は、どうもこういった政治家の先生方に弱いようである。僕も数年前、インドネシアの民間建立慰霊碑の問題で、厚労省が委託した業者のインチキ性に驚いた。僕らがまったくの善意で作成した「南方慰霊碑一覧」を無断で使用したばかりか、現地に出かけ虚偽の調査をしていた。この業者も自民党の著名代議士が関係している団体である。

「空援隊」の収集してきた遺骨の中には、現地民が自分のお墓から取り出してきて、収集団に”売りつけた”疑いのものもあるという。厚労省はこんな「空援隊」の事業に年間4700万円も支出している。英霊を利用した営利団体である。厚労省はきちんと精査した上で委託を決めるべきである。


              日本人の英語力

2011-10-06 06:05:50 | Weblog
東大大学院の秋の入学式で式辞も祝辞も英語で行われたと話題になっている。日本の企業の中には、すでに公用語を英語にしている会社もあり、日本の"国際化”もここまできたのかと驚きである。とくに戦争中、英語が敵性語として軽視された教育を受けた僕らの世代にとっては、まさに隔世の感である。

僕は戦争末期の昭和18年に旧制中学に入学、戦後の23年に卒業したが、戦争中は英語は敵性語として軽視され、戦後は逆に進駐軍の言葉としてもてはやされた世代である。戦中は英語教育は禁止されたという説もあるが、僕の学校では、20年1月、工場に勤労動員されるまでは英語の授業はあった。ただ19年度の教科書は文部省編纂の戦時色の強い内容であった。友人の一人は19年度出版の三省堂の「英和辞典」を今でも持っているが、表紙裏には特攻隊らしい軍服を着た兵隊の絵が描かれ"撃ちてしやまん”の標語が載っている。

戦後は占領軍の進駐とともに「日米会話手帖」という小冊子が売りだされ20年の年末までの僅かの期間に360万部も売れた。これで象徴されるように、敵性語だった英語は大ブームとなり、NHKのラジオからは童謡「証誠寺の狸ばやし」のメロディに乗って平川唯一先生の"カムカム・イングリッシュ”が大人気となった。巷には進駐軍の俗語なのだろうか。”ハバ・ハバ”(急げ急げ)という言葉が子供たちの間にも流行った。

しかし、学校で教える英語はあいも変わらず戦前からの読み書き中心の英語だった。大学受験の参考書には大正時代から一千部も増版したといわれる小野圭一郎先生の「英文の解釈研究」がもてはやされた。戦前から戦争直後に英語教育を受けた世代は、英語を読んだり、書いたりすることは、ある程度できるが、英語を聞いたり話したりできないのは、このためだろう。

戦後半世紀以上たって、やっと式辞も祝辞も英語で行われる学校も現れた。国際語としての英語の必要性は、僕らの現役時代とは比べものにならない。英語が敵性語だった僕らとは違う。読み書きだけでなく、話す聞く英語をもこれからは均等に力をいれるべきであろう。

       ”歌は世につれ世は歌につれ”と言うけれど

2011-10-05 07:14:06 | Weblog
老人にファンが多いNHKラジオの「深夜便」の午前3時のコーナーを先日聞いたら、昭和38年の流行歌が流れてきた。懐かしいものばかりだ。「こんにちは赤ちゃん」「高校三年生」「美しき10代」「見上げてごらん夜の星」「東京五輪音頭」などなど11曲全部メロディを知っており歌えるものばかりだ。とたんにまだ貧しかったが、元気だったあの時代がよみがえってきた。

"歌は世につれ世は歌につれ"-いわれるが、昭和38年(1963年)はまさにそうだったような気がする。翌39年の東京五輪を前にしてわが国はまだ、それほど豊ではなかったが、エネルギーに満ちていた。個人的にも僕も32歳、年老いた両親と2児を抱えて安月給で生活は苦しかった。が、何か将来に対して漠然とはしていたけれど夢があった。

今は老妻と二人きりの生活である。会話も限られている。そのせいなのだろうか。今、世の中でどんな歌が流行しているのか知らない。ネット情報だと、AKB48の歌とか「トイレの神様」「マルマルモリモリ」とかいった変な題名の歌がヒットしているらしいが、一向に僕の耳には入ってこない。これは年寄りだけの現象なのだろうか。

先週の日曜日、NHKの「のど自慢」を聞いていたら若い女性が「東京ブギウギ」を歌って鐘を三つならした。彼女のほかにも、懐メロに属する「高原列車は行く」とか「見上げてごらん夜の星」といった歌を若い人が歌っていた。なぜ、こんな古い歌がもてはやされ、今の歌が歌われないのか。"歌は世につれ”というが、現在は歌が流行する余地がないほどサツバツとした時代なのだろうか。"がんばれ日本”も掛け声で終わっては困る。明るい元気な歌が流行する世の中になってもらいたい。

         菅前総理のご遍路再開の意味

2011-10-04 06:30:38 | Weblog
菅直人前総理が四国八十八か所の霊場めぐりを再開した。今冶市の五十四番所の霊場「延命寺」から、お遍路姿で歩き始めた写真を見た。数か月前まで総理の座を何時辞めるかをめぐって"延命工作”ではないかと騒がれていただけに、再開霊場が「延命寺」とは、前総理には悪いが象徴的だ。菅さんが、これほど四国ご遍路にこだわる真意はなんなのだろうか。ご自身の心の問題で伺いしれないが、東日本大震災の復興や原発事故の収束を願ってのものと善意に解釈しているがー。

イスラム教徒は今、十一月二十五日までが巡礼月で、世界各地からメッカのアカバ宮殿へ向けての巡礼が続いている。イスラム教徒にとってはメッカ巡礼は三大義務の一つで、一生に一度は巡礼をすべきとなっているが、なかなか遠隔地からは経済的な事情から巡礼ができず、やっと出来ても厳しい旅で、途中で死亡する者が多かったという。今でもその過酷な巡礼は続いている。

スペインの巡礼「サンティアゴ・デ・コンポステラ」も人気であるようだ。主としてフランスからピレネー山脈を越えてキリスト教の聖地、サンティアゴへ徒歩で巡礼するコースだが、最近は信仰というより観光的要素が深まり、日本からも大勢の人が巡礼に出かけている。簡単に自動車や列車で行ける旅もあるとのことだ。

四国のご遍路の旅も最近はバスや車でまわる観光目的の巡礼が多くなってきたという。その目的も純粋な仏教信仰というよりも現世や来世への利益を期待してのもの。あるいは失われた自分探しといった巡礼が多くなってきているみたいだ。中にはバックパーカーの若者もみられるようだ。菅前総理の場合はどれに当たるのか。自分中心の巡礼であるならば、いまだに大震災や原発事故で避難生活を続けている人が数万人もいる。すこし時期尚早で不謹慎にも思われる。

         やめてよかった”ぶら下がり取材”

2011-10-03 06:27:17 | Weblog
野田佳彦総理が毎日の”ぶら下がり取材”をやめることにした。マスコミは野田総理が就任以来"ぶら下がり取材"がなく露出度が少ないと文句をいっていたが、、こんな意味のない取材はやめたほうがよい。昨年6月、当時の菅総理が就任直後”ぶら下がり”を一日一回にした時も小ブログは「みっともない”ぶら下がり取材”」を書き、その廃止を主張していた。

"ぶら下がり取材”は記者団の取材に応じて短時間立ち止まって質問に答える方式だが、半世紀以上前、僕が現役の時代にはなかった。"ぶら下がり取材”が何時から始まったのか定かではないが、いずれ画面が必要なテレビ時代になってからの産物だろう。が、活字時代に育った僕にとっては、まず"ぶら下がり”という言葉自体、物乞いみたいでイヤだし、第一短時間の取材では、相手に対しても大変失礼である。

鳩山元総理が野田総理に向かって"ぶら下がり取材”で自分の政治生命が短くなった”旨発言し、"ぶら下がり”を敬遠するよう進言したという。鳩山氏の政治生命がぶらさがり”で短縮されたとは思わないが、テレビで記者の質問を聞いていると”ご機嫌如何ですか”とか"何かありませんか”とかまるで御用聞きみたいでみっともない。

一国の総理であり、やはり絶えず国民との"対話”は欲しい。マスコミは野田総理の露出度は少ないといっているが、僕にはそれほど少ないとは思えない。意味のない"ぶら下がり”などやめても総理の政治生命がどうこうすることはない。東京ローカルのMXテレビが、石原慎太郎知事の記者会見を放送しているが、下手な番組より面白い。野田総理もこの方法を真似たら如何ですか。もっとも会見の内容次第ですが。すくなくとも御用聞きみたいな記者の質問はなくなるでしょう。

         戦災の瓦礫整理に動員された頃

2011-10-02 06:12:45 | Weblog
原発事故で「緊急時避難準備地区」に指定されていた住民が政府の指定解除によって約5か月ぶりに帰還できるようになった。放射能線量の除染の問題は完全には解決されていないようだが、とにもかくにも政府が帰還を許可したのだ。まずは原発事故収束にむかって一歩前進である。これが復興への弾みになってもらいたい。

敗戦の年の10月、僕は中学3年生だったが、学校の命令で東京の旧品川区役所近くの第一京浜国道沿いで戦災の瓦礫整理に1か月動員された。この地域は5月23日の空襲で一面焼け野原になった。10月といえば空襲から5か月経っていたのだが、国道の路肩には瓦礫がうず高く積まれていた。僕らは瓦礫運搬にきたトラックにこれを手作業で積み込む作業に従事した。

当時の東京の人口は、何度かの空襲と事前の疎開で激減していた。海外の戦地から働き手の若い人はまだ復員してこない。子供の姿もあまり見られなかった。戦争で各地に集団疎開した学童たちがようやく東京に帰れてたのは10月になってからである。

瓦礫整理に狩り出された僕らの仲間の中には、毎日疎開先の熱海からわざわざ通ってくる者もいた。当時東京では、食糧難から疎開先からの転入を抑制していたため、都内に自宅がある者でない限り転入できなかった。

戦争中と同様、僕らは”お国のため”に瓦礫整理に当たった。戦争が終わって工場動員からやっと学校に戻れたのに、勉強できたのは9月1か月だけだ。第一京浜国道には進駐軍のトラックやジープが疾走していたが、いた痛げな僕ら子供が働いているのを見て同情したのであろう。時には「ラッキー・ストライク」(タバコ)を投げてくれる黒人兵もいた。僕らは、これを換金して皆で映画館へ出かけた。こんな時代でも子供はこどもだった。