「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

”地域完結型”の医療介護を望むならば

2013-10-21 05:29:32 | Weblog
昨日の日曜日早朝7時、家の固定電話が鳴った。町会からの連絡電で”雨のため今日の町内清掃は中止です”とのこと。わが町は”幻の東京五輪”(昭和15年)前後に急成長した。下町ではないが、比較的まだ東京の良さが残っている。秋の一日、有志が集まって町内の主だった通りなどを掃除する。戦前、東京には”秋の大掃除”という行事があり、各家庭一斉に掃除をしたがその名残であろう。

亡父の日記を見ると、戦時下、東京では隣組の組織がしっかりして週に一回は「常会」という隣近所の集まりがあり、組長が重要な知らせを伝えた。戦争がはげしくなると、月に一回ぐらい防空演習があり、亡母はモンペに頭巾をかぶり、バケツリレーによる消火訓練に参加した。”秋の大掃除”も、町をあげて強制的な行事で、各家庭とも畳をあげて、一斉に秋空の下で埃を叩いたものだ。この姿はもう東京ではみられなくなった。

2010年から25年までの15年間で、少子高齢化が一番進むのは東京だという。厚労省の統計ではなんと65歳以上の人口が74.3万人も増える。しかし、これといった対策が取られているようには思えない。国は老人の医療介護については「病院完結型」から「地域完結型」にしようというだけだ。つまり、人生最後”終いの地”を家にし、それまでの看護は地域ぐるみで見ようというもののようだ。

しかし、肝心の地域社会はどうなっているのか。”格子を開ければ顔なじみ”(「隣組の歌)の時代ではない。わが町は春秋二回、日帰りのバス旅行。夏のラジオ体操会、料理教室など開いて町内の親睦を図り、真冬には拍子木を叩いて”火の用心”まわりをしている。お蔭で町内には犯罪がない。国は「地域完結型」の医療看護を目指すならば、地域包括センターといった役所仕事だけにまかせず、もっと町内会に協力を仰ぐべきだ。

伊豆大島は将来の超高齢社会の縮図

2013-10-20 05:21:15 | Weblog
台風26号によって甚大な被害を受けた伊豆大島では、いまだに22人の方が行方不明で懸命な捜索活動が続いているが、そのさなか新しい台風の襲来で、第二次災害が心配され、一部の住民の方に避難命令が出された。弱り目にたたり目。心から同情申し上げる。

毎日、新聞の社会面やテレビの現地からの報道をみて気が付くのは、被害にあわれた方々にお年寄りが多いことだ。犠牲者のほとんどが65歳以上で、安否不明者のリストをみても同じだ。深夜午前2時の事故だったこもあるが、足腰が弱く、逃げられなかった老人もあったかもしれない。膝の悪い年寄りの一人として容易に想像でいる。

「健康長寿ネット」というHPに伊豆大島の高齢化の模様が紹介されていた。これによると平成20年度の大島の65歳以上の高齢者人口は2649人で、島全人口の30%と高い。日本全体の高齢者率から見ると、20年ほど進んでいる。厚労省の発表によると、日本の高齢者率は今年平成25年で25.1%で4人に1人、22年後の平成47年には33.4%となり、3人に1人が高齢者となる。しかし、伊豆大島ではすでに5年前に高齢者率は30%をクリアしていた。

今回の伊豆大島の災害を見て、僕は20年後の日本の超高齢者社会を想像してみた。先日の福岡市の整形外科病院の火災でもそうだったが、どうしても高齢者は災害に弱い。20年後先には3人に1人のlの超高齢者社会が現実のものとなる。今回の伊豆大島の災害を教訓として、老人を災害から守る対策も検討して頂きたい。

政治家が“徒党”で靖国参拝するよりは

2013-10-19 05:46:18 | Weblog
秋の靖国神社の例大祭に閣僚や政治家が参拝したとして一部のマスコミが、またぞろ騒いでいる。もういい加減にせよと言いたいが、政治家も政治家だ。超党派の議員が百数十人も”徒党”を組んで昇殿する姿は異常である。これまで超党派議員団は8月15日の終戦記念日に参拝したのがニュースになっていたが、例大祭にも参拝するようになったのか。それとも”近隣諸国”に配慮して8月15日の参拝をやめ、例大祭に切り替えたのであろうか。

僕は靖国神社に参拝するな、と言うのではない。閣僚の中でただ一人個人的に参拝した新藤総務大臣が”参拝は個人の心の問題である”と言っているがその通りだ。新藤大臣は祖父が合祀されているそうだ。新藤大臣は8月15日にも参拝しているが、マスコミの中には、これをとらえて、まるで”前科犯”のような扱いの報道だ。

戦時下の事について比較的几帳面に記述している亡父の日記を調べたが、天皇皇后両陛下が春夏の例大祭に親拝された事は書いてあるが、東條首相が参拝したかどうかは記されていない。当時(昭和15年―20年)は大政翼賛会傘下であったが、大政治翼賛会議員が、行列して昇殿したという記述は見当たらない。

戦前、靖国神社の春秋の例大祭は、4月30日と10月23日に固定されていて、東京の小学校では休みであった。子供だった僕らは神社境内の縁日を楽しみに参拝に出かけた。天皇皇后両陛下の御親拝の時には、全国から招かれたご遺族が九段坂に蓆をしいて拝顔した。天皇陛下の御親拝が中止になってから久しい。今、望ましいのは安倍総理の参拝ではなくて、天皇陛下が親拝できるような環境づくりを政治家が努力することである。

台湾出身あるインドネシア残留軍属の死

2013-10-18 10:07:49 | Weblog
戦後インドネシアに残留、独立戦争に参加した台湾出身の宮原永治さん(インドネシア名ウマル.ハルトノ)が亡くなられた。大正9年生まれ93歳だった。宮原さんは大東亜戦争勃発直後の昭和17年3月、クラガン(スラバヤ)上陸作戦に第48師団給水部隊の軍属として参加、以来一時帰国はあったが、72年にわたってインドネシアの地に残留、日本とインドネシアとの間の友好親善に努めてきた。

僕はここ20年來、宮原さんとお付き合いを頂いてきたが、変な言い方だが、日本人以上に日本人で昔の大和魂の持ち主だった。風貌も古武士を思わせるものがあった。僕の第一の想い出は平成12年、ジャカルタの墓地公園(Museum Taman Prassti)で野ざらしのまま放置されていた旧日本軍広安梯隊の慰霊碑再建について、ジャカルタの日本大使館や邦人組織ジャパン.クラブが非協力だったのに対して、率先してインドネシア側と交渉にあたり再建がなった。

戦後、宮原さんは生活が苦しく、日本人残留者があまり好まない日本商社のりアウ州での海草採集にも従事した。その後ジャカルタに移住してからは残留者の福祉組織「福祉友の会」の仕事をボランティアで手伝っていた。いつも決まった色の半そでシャツを制服のように着て、大声で”今の日本の政治はなんだ。若者はなっていない”というのが口癖だった。

僕は台北に林大正さんという旧近衛第二師団の友人がいるが、大正生まれの台湾生まれの方には共通の日本への愛国心がある。宮原さん長い間℃苦労さまでした。安らかにお休みください。合掌 写真は宮原さん

フィリッピンの地震 昔は戦場、今は英語留学先

2013-10-18 05:44:32 | Weblog
フィリッピンのボホール島を震源とするM7.2の地震で、同島をはじめ近隣のヴィサヤ諸島の島々で死者155人、負傷者290人を出した。隣のセブ島ではフィリッピン最古のキリスト教会が倒壊したというAFP電を読んだ。ボホール島は大岡昇平の「俘虜記」の舞台になったレイテ島とも近く、この島でも戦争末期ゲリラ戦があった。

どうも日本のマスコミは、僕の偏見かも知れないがフィリッピンのニュースの報道が少ない。先の戦争の末期、レイテ島での大激戦で日本軍は2万人近くの犠牲者を出している。また、戦後のモンテンルパの連合軍裁判で、山下奉文将軍が刑死されるなど暗いイメージが原因とは思えないが東南アジアの他国に比べてニュース量が少ない。そのせいか政府の比国への関心度も低い。2006年にもレイテ島沖で大地震が起き、千人以上の犠牲者が出たが、日本の自衛隊の救援出動はなかった。

フィリッピンは国が戦場になり大被害をこうむった関係で、反日感情が強いと思っていたが、日本のアウン.コンサルティング会社がアジア10か国を対象に2011年行った調査によると、意外なことに対日感情は”大変大好き”67%、”好き”27%と調査国中、最もよかった。ちなみに最低は韓国で、それぞれ8%、28%であった。

今、日本の一部若者の間でフィリッピンへの英語格安留学が人気らしい。その留学先も今回地震のあったセブ島やレイテ島が多いと聞く。生活費コミで1か月10万円ぐらいで出来るという。時代は変わってきている。「俘虜記」の時代のあったことも忘れてはいけないが、今は留学の時代である。ありもしなかった”従軍慰安婦”に、いつまでもこだわっていても進歩も未来もない。

やなせたかし 大正1ケタ生まれの気骨

2013-10-17 06:22:55 | Weblog
「アンパンマン」の作者やなせたかしが94歳で大往生ををとげた。やなせたかしは大正8年生まれである。やなせさんの世代、大正1ケタ生まれ(1912年―20年)は、日本の各世代を通じて最も苦労をされた人たちであろう。たまたま手元に戦後、インドネシアに残留した元日本兵の名簿があったが、これをみると理事長だった乙戸昇氏、石井正治氏(いずれも故人)をはじめ240人のうち185人がこの世代である。

この世代は物心つくかどうかの時代に世界恐慌の不況に見舞われ、満州事変に始まる長い戦争の時代を経験している。やなせさんも昭和16年徴兵を受け野戦銃砲隊員として中国大陸を歴戦している。実弟はフィリッピン沖で特攻隊員として戦死している。「アンパンマンのうた」は弟さんをしのんで作られたものだという。やなせさんお経歴をみると、漫画家、絵本作家、イラストレーターと多芸の人だが、アニメ「アンパンマン」の作者として世に知られるようになったのは70歳近くになってからだという。

大正1ケタ世代にはロマンチストの面もあるが、頑張り屋さんが多い、やなせさんの晩年は満身創痍で、膀胱ガンの手術を11回も受けたという。僕も同病で4回手術を受けているだけに驚き、その頑張りぶりに勇気をもらった。

ネットにやなせさんの名言集が載っていた。そのいくつかを紹介させて頂く。「生きていることが大切なのだ。今日まで生きてこられたたら、少しぐらいきつ句とも明日また生きられる」「一日一日は楽しいほうがよい。たとえ十種の病気持ちでも、出来る限り運を天に任せ、出来る限りおしゃれをして、この人生を楽しみたい」「健康でスタスタと歩いているときは、気がつかないのに、病気になってみると当たり前に歩けることが、どんなに幸福だったかわかる」まさに実感である。

犠牲祭 異文化文化理解の難しさ

2013-10-16 09:18:16 | Weblog
昨日、インドネシア人の知り合いと正午に会う約束をしていたが”今日は犠牲祭(Idul Adha)で朝モスクへ行かなくてならないので午後に延期してくれ”と電話があった。そんなこと前から判っていたのにと思ったが、やはり国民性の違いだ。半世紀前、初めてアラブ諸国へ出かけた時、いつも僕は他国の人が日本人とちがって時間にルーズなことでハラをたてていたことを思い出した。 

10月16日は、アジアの国々には休日なところが多い。イスラム国家のバングラディシュは16日、17日と連続して休日。イスラム教にとっては重要な行事の犠牲祭で、巡礼最後の日である。イスラム国ではないフィリッピン、シンガポール、スリランカも国内のイスラム教徒を配慮して休日である。

10月初めから南インドを旅行している孫から無事ゴアに着いたと娘宛てメールが入った。夜行バスや列車、時には船を利用しているようだが、盗難を警戒してパスポートや現金、ケータイは腹にベルトを巻きつけて旅行しているが、住民の親切に助けられて快適な旅のようである。しかし、10月は本人が事前に調べたのかどうか、やたらに休日が多い。11日―14日はヒンズー教のDussehraという休日。16日はイスラム教の犠牲祭だ。幸い、鉄道会社が休日のため半休だった位で旅の計画には影響はないらしい。

20年ほど前、僕も断食明けと華僑の旧正月とが同じ時期にあったことがあった。それなりに旅としては楽しいのだが、出来れば事前によく調査したほうが安全だ。

台風が外国人女性名で呼ばれていた時代

2013-10-16 06:32:56 | Weblog
台風26号が猛威をふるって関東平野を通過していった。特別用もない僕ら年寄りは、じっと家の中に蟄居していたが、現役は大変だ。通勤電車やバスのダイヤは混乱して大騒動だ。それより台風による記録的な雨で、伊豆大島では土砂崩れによって数十軒が倒潰し、その下敷きになって13人が死亡、45人が行方不明になっている。首都圏に住む僕らは、台風というと戦後すぐの時代の、昭和22年のキャサリン台風と24年のキティ台風を想い出す。

1947年(昭和22年)から52年まで、連合軍占領下にあったわが国では、台風を外国人女性名でアルファベット順で呼んでいた。キャサリン(Kyatherin)は、昭和22年9月、関東地方に上陸した台風で、この年7番目のものだった。渡良瀬川が決壊して、この流域だけで700人が死亡、利根川、荒川でも一部決壊、東京の下町も水浸しになる危険が出て進駐軍まで出動する騒ぎであった。キティ台風は24年、同じく関東平野の小田原付近に上陸した台風で、25人の犠牲者が出ている。

平和条約締結後は、台風名はその年発生した順に第○号と呼ばれているが、甚大な被害を出した台風に限り「狩野川台風」(昭和33年)「伊勢湾台風」(34年)と呼ばれている。自衛隊が自然災害に対して出動し,貢献しているのは今では当たり前のことになっているが、台風が外国人女性名で呼ばれていた時代は、まだ自衛隊はなかった。キャサリン台風のときは警察だけでは対応できず、進駐軍の支援がなければ復旧できなかった。

首都圏の利根川、荒川はキャサリン台風以後大きな決壊は起きていない。被害を教訓にして本格的な治水工事が行われたからだという。数年前民主党政権は"コンクリートから人へ”の政策を掲げ,八ツ場ダム建設反対を主張したが、残念ながら自然災害の多い、わが国では常時、災害防止を想定しなければならないのだ。

メダン新空港 植民地経済からの転換

2013-10-15 05:46:47 | Weblog
ここ数年消息がなかった北スマトラ(インドネシア)メダンのインド系住民ケネディ君から手紙が届いた。1997年(平成9年)僕がメダンの外国学校で日本語をちょっと教えていた時の生徒だ。今どき珍しい手書きの日本語で書かれてある。自分の近況と共に、この夏メダン郊外に完成したクアラ.ナム空港について誇らしげに書いている。

北スマトラは、かってオランダ時代、完全に植民地経済の支配下にあった。これまでメダン市内にあったポロニア空港は世界一生産量を誇った葉タバコ農園の跡で、ポロ二アは農園主の名前をとったものだった。今、メダン近郊には、ほとんど葉タバコなど生産していないが。このポロ二ア空港は狭く設備も古く、事故の多い空港として関係者の間で評判が悪かった。僕が滞在していた時も事故があり、日本人数名が死亡している。

そんな訳でメダン空港の移転はインドネシア航空界全体の問題だったが、やっと10数年来の計画が実現した。新しいクアラ.ナム空港はメダンから40㌔離れたディリ.セルダン県にある。マラッカ海峡の海岸から3キロの油ヤシ農園跡に建設された。1365haという広大な敷地である。油ヤシもオランダ植民地時代の産物である。ゴム農園と共にオランダ植民地経済を支えてきた。しかし、最近は油ヤシの焼畑に伴う煙害で近隣諸国からクレームが出て転換期に来ていた。

クアラ.ナム空港のあるディリ.セルダンは、かってこの地方にあった土侯国(首長国)の名前である。僕はメダン滞在中、セルダン土侯国の末裔、ルクマン.シナ―ル氏(北スマトラ大学講師)と知り合いになったが、同国の最後のサルタンは明治31年、一族郎党を連れ船で日本へ渡り、明治天皇に拝謁したという記録がセルダン側には残っている。1999年、ルクマン.シナ―ル氏を日本に招き調べたが、残念ながら日本側には記録はなかった。昭和17年、日本軍(第25軍)が上陸したのもクアラ.ナム近くのタンジュン.ティラムの海岸である。

色々過去の歴史をしのびながら、新しく急速に発展しつつあるメダンの地を再訪したいと思っているのだが、身体が許すかどうかである。




大東亜会議70周年(2)瑕瑾だったマレー.インドネシア不参加

2013-10-14 05:39:53 | Weblog
大東亜会議と銘打っても、この会議には旧英領、旧蘭領地域からの参加はなかった。その理由は会議決定を決めた5月の「大東亜政略指導大綱」に次のような規定があったからだ。▽マライ、スマトラ、ジャワ、ボルネオ、セレベスは帝国領土と決定し、重要資源の供給源として極力これの開発並びに民心の把握に勉む▽これら地域に対して当分軍政を維持する。

大東亜共栄圏の第一歩ともいうべき会議だったが、マライ、インドネシアの不参加は会議にとって瑕瑾(玉の傷)であった。会議の席上でもフィリッピンのホセ,ラウレル大統領が、この点に触れ不満を表明している。たしかに、これは日本の唱える大東亜共栄圏構想に矛盾するところがあった。大綱が発表になった後、ジャワ、スマトラなど各地の独立指導者を中心に、日本への不満が爆発した。このため、翌19年には住民に対し独立国旗の掲揚と国歌を歌うことが許され、さらに20年3月には独立準備委員会が発足した。

軍の一部には、もともと自然資源の豊富な英領マレーと蘭印については日本の領土とすべきと考えていたようだ。昭和17年4月の天長節(天皇誕生日)に際し、山下奉文司令長官は集まったシンガポールの群衆に対して”新附の民”という言葉を使っている。”新附の民”とは新しく日本国籍を与えられる民の事である。

有色人種だけが集まって初めて開催された会議である。この点は高く評価するが、一方では、こういった事実もあった。70周年に当たり、一部に大東亜会議を意識的に過大評価する動きがあるが、歴史は冷静にみたいものである。、