「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

朝日の慰安婦報道 どこの国の新聞か

2013-10-13 17:18:14 | Weblog
ネットの見出しで”政府東南ア慰安婦調査せず”とあった。何のことかと本文をみたら朝日新聞のデジタル版の報道であった。1992年から93年にかけて、日韓間で「従軍慰安婦」調査が問題になっていた時,日本政府が東南アジア各国に、この問題の拡大阻止のため在外公館に送った文書が発見されたという記事である。見出しだけみると、政府が東南アの慰安婦を調査しなかったのは間違いだともとれる。例によって誤った事実や解釈によって他国を利せさせるやり方だ。

たまたま新聞の国際面の片隅に国連総会委員会で、韓国の女性担当相が、名指しこそしなかったが、従軍慰安婦問題を取り上げ”問題の唯一の解決策は(日本政府)が素直に謝罪すべきだ”と発言していた。韓国は3年続けて、この問題を国連に定期している。これに対して日本側の代表が”すでに婚問題は解決ずみだ”と強く反論していたが、まったくその通りだ。1995年、日本政府は事実誤認の「河野談話」に基づいて解決策として「アジア女性基金」を創設した。「河野談話」は朝日新聞の誤報によるものだとされている。「アジア女性基金」で韓国を除く国はこれを受け入れたが、韓国政府は反対し、11人が個人的に受け入れた。

朝日新聞には過去の慰安婦報道についての反省がまったく見られない。今回のデジタル版の報道もそうである。慰安婦問題の核心が解かっているのだろうか。日本人だって解からない問題の調査を他国でやっても、誤解を拡散するだけだ。10年も前の政府の公式文書を、あたかも新発見のように報道して、何の意義があるのだろうか。韓国の反日メデイを喜ばせるだけである。いったい、どこの国の新聞なのだろうか

大東亜会議70周年(1)かけこみ参加

2013-10-13 06:06:46 | Weblog
70年前の昭和18年(1943年)11月5,6日東京で大東亜会議が開催された。東條英機首相の呼びかけで、中華民国(南京)国民政府汪兆銘行政院長、満州国張景恵国務総理大臣、タイ.ワンワイタヤコン殿下、ビルマ.バーモウ内閣総理、ホセ.ラウレル大統領、それに自由インド仮政府のチャンドラ.ボース首相の6人が参加した。当時、僕は中学(旧制)1年だったが、会議は大東亜共栄圏実現の第一歩だと、強い期待を抱いたことを覚えている。

大東亜会議は18年5月31日の御前会議で決まった「大東亜政略指導大綱」に基づき、11月開催が決まった。当時子供だったので、詳しいことは知らなかったが、開催までの6か月は、主催国日本にとっては多難の外交であった。参加国のうちフィリッピンが独立宣言したのは会議20日ほど前の10月14日であり、自由インド仮政府が成立したのは、なんと、それほど後の10月21日であった。言ってみれば、綱渡りの駆け込み参加であった。

「大東亜政略指導大綱」が決まった5月から大東亜会議までの半年間は、過去の世界史でもあまり類をみない。わが国で言えば、緒戦の勝ち軍がアッツ島の玉砕から負け軍に転じた。山本五十六連合艦隊司令長官の戦死が、その象徴的であった。欧州戦線でも、連合軍がシチリア島に上陸、イタリアのバトリオ政権が崩壊した。この目まぐるしい変化のなかで、東條内閣としては、何が何でも大東亜会議を実現せざるをえなかったのであろう。

亡父の18年11月5日の日記には、欄外に「大東亞会議第一日」とならんで「ブーゲンビル島の大戦火発表」とある。ブーゲンビル島とはソロモン諸島第一の島で、この日、連合軍がブーゲンビル島に再上陸した日であった。大東亜会議開催の祝砲として、大本営は国民向けに勝ち軍として報じたかったのであろう。

老人受難時代 日本人のたるみ

2013-10-12 05:33:41 | Weblog
またまた年寄りの受難である。福岡市博多区の整形外科病院で入院中の患者、病院関係者10人が火災で死亡した。みな70歳以上の高齢者で死因は煙にまかれた一酸化炭素中毒である。患者はみな足腰の悪い歩行が困難な方ばかりである。いつも、こういった災難後明らかにされるのだが、この病院の防災管理者は、事故で亡くなった70歳の病院長の母親であり、今年6月、消防署が行った査察で指摘されていた。事故当夜の宿直も60代の女性看護師一人だったという。

他人時ではない。僕も先月、膀胱ガン手術のため国立病院に入院したが、病室には火災時の避難図はなかった。いま考えると、災害時逃げる緊急階段がどこにあるのか僕は理解していなかった。今は、どんな小さな、ビジネス.ホテルに泊まっても、緊急時の非常階段がどこにあるのかマップが張ってある。今回火災があった病院では、いちおう防火扉も消防署の指導で備えつけされていたが、残念ながら全部可動していなかったという。火災発生の第一報は、宿直看護婦が、外へ飛び出して通りかかったタクシー運転手への119番依頼であったとのこと。病院の防災態勢から見れば、精いっぱいであろう。

日本人のどこかに”たるみ”が出てきたように見えてならない。病院長が記者団に涙を流して謝罪していたが、なぜ事前に防火体制をチェックしなかったのか。70歳の母親が管理者では、もしもの時の対応はできない。法律に違反はしなくとも一考すべきであった。頻発する東京電力福島原発の放射能汚染水漏れ事故もJR北海道の異常レール幅の放置もそうである。どこかに日本人の”たるみ”がある。三鷹の女子高校生ストーカー殺人事件の警察の対応も、警察はさかんに自己弁護してるが、人命の観点からみれば”たるみ”、以外のなにものでもない・、

49年前東京五輪開催中の二つのビッグニュース

2013-10-11 05:26:31 | Weblog
49年前の10月10日は第18回東京五輪の開幕式のあった日だ。それを記念してこの日が「スポーツの日」として国民の祝日となったが、いつか”ハッピーマンデイ”制の導入で10月の第三月曜となり、そのためなのだろうか、東京五輪そのものさえ国民の記憶から薄れ始めてきていた。しかし、今年は2020年五輪の開催決定で、改めて昭和39年10月10日の、あの感激がよみがえってきた。”世界中の青空を全部東京にあつめた”(NHK アナの実況放送)快晴の下での開会式であった。

当時僕は新聞社の外信部勤務で、外国語に堪能な仲間は五輪取材要員として動員されたが、ぼくは留守番役にまわった。ゲームが見られず残念だったが、どうせ紙面は五輪一色、楽が出来ると内心喜んでもいた。ところが開催6日目の16日、夜勤シフトであったが、五輪を吹くきとばすビッグニュースが二つも飛び込んできた。一つは当時東西冷戦体制の下、東側の旗頭、ソ連のフルシチョフ第一書記が辞任し、ブレジネフが新任されたというタス通信の発表。もう一つは中国がタグラマン砂漠で初めての原爆実験に成功したというニュースだ。

五輪取材にさかれて、たしか外信部デスク体制は僕を含めて二人だった。幸い、一人はロシア語の専門家だったのでソ連のニュースには対応できたが、中国の突然の核実験の発表には困った。今、考えると、世界の目が東京五輪に集中していた時を狙っての実験だった。東京五輪には中国は選手を派遣していなかった。僕にとっては前回の東京五輪の想い出は”東洋の魔女”でもマラソンの円谷選手の銅メダルでもなく、フルシチョフであり、中国の核実験である。 

昭和47年2月の冬の五輪の際も僕は札幌の民間テレビに勤務していたが、、開局前の多忙期で試合を見ていない。五輪にはよほど縁がない。次回2020大会はどうだろうか。

日本人の「成人力」と週5日制授業

2013-10-10 05:23:22 | Weblog
日本人の「成人力」が世界で突出していることが判った。「成人力」とは社会生活で求められる能力の事を指すようだ。これはOECD(経済開発協力機構)が加盟24か国.地域を対象に初めておこなった「国際成人力」調査(PIAAC)で明らかにされた、日本は「成人力」のうち「読解力」と「数量思考力」の部門でともに一位であった。

何事も一位は嬉しく誇らしいが、OECDが3年に一回行っている「生徒の国際学習到達度」調査(PISA)では2000年、日本は数学的応用力が一位だったのが、2009年には九位に急降下している。今回のPIAACでも若年層(16歳―24歳)でも中高年層に比べて他国との差は小さいとのことだ。これは先年から指摘のある”ゆとり教育”による学力低下と関係があるのだろうか。

文部科学省が行った土曜授業復活を問う調査結果(平成24年度)が新聞に出ていたが、保護者の86%が復活に賛成なのに、教員は38%しか賛成がない。”ゆとり教育”の元凶が週5日制にあるのではないかと検討され、昨年来自治体によっては土曜授業が復活してきたが、まだ全国的にはすくない。週6日制が出来ない理由としては、教員の勤務体制の調整、部活動の日程が困難などがあげられているそうだが、かっては日本全国どこでも週6日制であったのだ。

文部行政も日教組の息のかかった3年3か月の民主党政権下でおかしくなってしまったようだ。僕ら戦前、教育勅語で育った世代にとっては、資源の乏しい日本の財産は唯一勤勉努力にあると教えられてきたものだ。

何をしているのか警察のストーカー対応

2013-10-09 07:19:33 | Weblog
東京三鷹市の井の頭公園の民家で、この家に住む女子高校生が後をつけていた21歳の男に首を刃物で切られ搬送先の病院で亡くなった。男は前から女子高校生に付きまとい、事件のあった朝も両親と共に近くの三鷹署に相談に出かけていたという。まさにストーカー犯罪である。警察は何をしていたのかと言いたくなる。警視庁のHPには「ストーカー被害にあったら警視庁」とある。被害者は切羽つまって相談に出かけたのだろうが、いったい何をしていたのだろうか。

ストーカー行為による殺人事件は1999年の桶川駅(埼玉県)前の女子大生殺害事件以来後を絶たない。2000年には「ストーカー規制法」まで出来たのになぜなのだろうか。恐らく個人のプライバシーについて警察の中に変な解釈があり、一歩踏み込めないのではないのだろうか。数年前、ストーカーではないが、明らかに犯罪行為と思われる件について警察の生活相談室にでかけたが、言葉は丁寧だったが、まったく取り合わず、がっかりしたことがある。

この事件について警視庁の生活安全課の責任者は「百%適正な対応だったといえる情報は持っていない。対応が十分だったかは、時間はかかるが事実確認をして行きたい」(産経新聞)と歯切れの悪い説明をしている。過去にも同じような事件が起きている。その経験が今回も生かされなかったのには、やはり警察内部に変な人権に関する神話があって、それが障害になっているのではないのだろうか。

警察の対応はおかしい。女子高生の通う高校の担任教師は、学校近くの杉並警察署のも相談していたという。何故三鷹署との間で相互に連絡が取れなかったのか。また、その後判った事では、ケータイで連絡の取れなかった犯人に対して”警察に連絡をよこせ”と留守電を入れていたという。まったく人間の機微のわからないやり方だ。

孫の貧乏旅行と「インド自由仮政府」樹立

2013-10-08 05:11:43 | Weblog
大学生の孫のLCC(格安航空券)を使ってのアジア貧乏旅行は3週目に入り、先日クアラルンプ-ルから南インドタミール.ナンドゥ州ののティルッチラッパリ空港に到着した、とメール連絡があった。この舌をかみそうな空港がどこにあるのか恥ずかしながら知らなかったが、孫はここを出発してマドゥライ、カーニャクマリ、コーラム、コーチン、ゴア、ハンビ、ムンバイと2週間にわたって安宿と夜行バスを使って旅行する。

東京で最古のインド料理店、銀座の「ナイル」の創業者、A.M.ナイルさん(故人)は、南インドケララ州の出身だ。戦前インドが英国の植民地時代の独立運動家で、英国官憲に追われて日本に亡命してきた。彼は当時日本を拠点に独立運動をしていた”中村屋のビハリー.ボース氏とともに昭和18年10月、シンガポールに、チャンドラ.ボース氏を首班とする「インド自由政府を」を樹立した功労者である。70年前のことである。

戦後の連合軍市ヶ谷極東裁判で、インド人のパール判事がただ一人、日本無罪論を主張したのは有名な話である。戦後まだ戦火の瓦礫の中で生活していた東京の子供たちに夢を与えようと、当時のネール首相が、上野の動物園に自分の娘の名前を付けた象を寄贈してくれた。日本各地にある仏舎利も、日本からの戦時賠償金に対する、そのお返しとして贈られたものである。

孫がどの程度過去の日印関係について理解しているか解からないが、実際に現地に行きインドの人と接触することは意義のあることだ。過去の”歴史認識”にこだわっている反日国家には、若者も行きたがらない。困ったことだが、随分偏屈な心の人たちであろう。

老人も手書きで手紙を書かなくなった!

2013-10-07 06:09:17 | Weblog
先日文化庁が行った国語調査(2012年)で”手紙は手書きで書くものだ”とする若い世代が増えていると、新聞に出ていた。80歳を越えた僕らでも最近は、めったに手書きで手紙を書かないし、また貰わない。最初、僕はうっかり、若い世代が手書きで手紙を送る、ことが流行しているのかと勘違いしたが、そうではないのだ。彼らにとっては、手紙は文字通り手で書くもので、それ以外は”メール”なのかもしれない。

パソコンやケータイなどによる電子メールが普及するまでは、手紙は電話とならんでもっぱらの通信手段であった。家の郵便箱には毎日数通は郵便物が入っていたものだが、最近は一通も入っていない日もある。書棚の隅に「手紙文書実例大辞典」という本が眠っている。かっては、どこの家にもこの種の本があったものだっものたが。この「大辞典」の季節の挨拶の項にこういうのがあった。「灯火親しむの侯」「天高く馬肥ゆる秋」「二百十日も穏やかにすみ」etc。とても今の時代、メールで使える言葉ではない。やはり、手書きの手紙、それも墨書が似合う言葉だ。

「灯火」といってもLEDの蛍光灯では、季節感はないし、「馬肥ゆる」といっても都会では馬などどこにもいない。時代の流れなのだろう。若い人が手紙は手書きで書くもの、といった意識が解る。パソコンの「Word」を使って印刷したものは、形態は手紙であっても手紙ではないのだ。手書きで手紙を書かなくて以来、漢字は読めても書けなくなってた。そして友人、知人との関係が疎遠になってきた気がする。

中国人の傍若無人のマナ―の悪さ

2013-10-06 06:51:54 | Weblog
国慶節(建国記念日)の連休が終わった途端、中国ではWHO(世界保健機構)の基準値を10倍も上まわる濃度のPM2.5大気汚染だという。偏西風にのって、このPM2.5わが国に襲来するのは確実だ。なんとも他人迷惑、傍若無人のお隣さんだ。この傍若無人さは、中国人本来の体質なのだろうか。この他人をかえりみないマナーの悪さが連休中、国内でも多発し社会問題化しているという。

中国のマスメディアが伝えるマナーの悪さを拾ってみると、世界遺産の景勝地ではバスに乗れなかった観光客が道路上にあふれ武装警官まで出動、蘇州では銀杏の木に登って銀杏の実を食べたり、南京では登ってはいけない城壁に子供が登り、大人がそれを援助したりした。中国の国家観光局では、連休前に地方政府にパンフレットを配布”公共の前で鼻のアナをほじくったりしてはいけない。飛行機の救命道具を持ちかえったりしてはいけない。プールで小便をしてはいけない”などと注意していた。

3年前、僕は金婚式旅行で老妻と台湾の故宮博物館を訪れたが、その時の印象を「無作法な大陸からの観光客」とブログに書いた。団体で中国本土から来た観光客は館内で声高に談笑し、撮影禁止の展示物を平気で撮影している。とても、じっくり鑑賞などできない。このマナーの悪さについて、僕は多少同情的に、文化革命によって中国人の伝統的な儒教に基づく道徳律が破壊されたからだと見た。

まったく無頼国家である。尖閣問題に対する一連の行動や主張は、自己中心の勝手極まるものだ。PM2.5の問題については、わが国への影響ははっきりしている。政府はきちんとデーターを明示して強硬に抗議すべきである。黙っておれば、つけあがるだけだ。

むかごご飯

2013-10-05 09:36:44 | Weblog
老妻がむかご(零余子)を自由が丘の無人スタンドで一袋200円で買ってきた。旬のものだが、なかなかスーパーでは売っていない珍品である。早速むかごご飯にして食べた。美味である。むかごは山イモや自然薯(じねんしょ)の葉のつけねにできる球芽で、小指の爪ぐらいの大きである。(写真)

わが家でむかごご飯を食べるようになったのはいつごろか。少なくとも僕にとっては”おふくろの味”ではない。信州育ちの老妻も昔食べたことはないという。「零余子」という漢字からみて恐らく中国から渡来してきたものだろう。

僕ら夫婦は二人とも戦中戦後の食糧難時代に育った世代である。混ぜご飯といえば、サツマイモ、大根、トウモロコシ、大豆、豆カスetcで、どれも好い想い出はない。むかごご飯のルーツは薬膳料理か精進料理なのだろうか。上品な味だが、これでは食糧時代では、腹の足しにはならなかったに違いない。