「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

東京五輪 中国初核実験 フルシチョフ時代の終焉

2014-10-11 05:15:05 | Weblog
”あれから50年も経ったのか”というのが率直な気持ちである。昨日、産経新聞に昭和39年10月10日付け夕刊の復刻版が載っていた。東京五輪の開会式当日の新聞である。とたんに、前日来の大雨が上がって、東京に気持ちの良い青空が戻ってきた、あの日の事を想い出した。懐かしく、当時同僚だった石井英夫君の名文を再読しようと思ったが読めない。活字が小さくて一段に15字ぎっしり詰まっているのだ。時の経過をつくずく感じた。35年にわたって産経新聞の名物コラム「産経抄」を書き続けた石井英夫記者も、僕同然もう引退している。

当時、僕は国際ニュースを担当する外信部のデスクをしていた。同僚たちは語学力を買われて五輪の各競技場の取材に当たったが、僕は選にもれて”留守部隊”にまわった。正直なところ残念だったが、反面どうせ五輪で紙面はない。楽で休めるという気持ちもあった。五輪まっさかりの16日、ソ連(当時)通の若手記者O君と二人で夜勤をしていたところ、たて続けに世界を驚かすビッグニュースが二つ、外電から流れてきた。

一つは中国がタカラマン砂漠で初めて核実験に成功、五番目の核所有国となったというニュース。もう一つはソ連のフルフチョフが閣僚会議議長(首相)と共産党第一書記を辞任し、それぞれコスイギン、ブレジネフに譲ったというタス通信の報道だった。この報道は、ソ連圏専門のO君にとっても青天の霹靂(へきれき)であった。今から思えば、フルシチョフの辞任は東西冷戦終結の序曲ともいうべき大ニュースであった。

ついに東京五輪を観る機会は一度もなかった。1972年2月の札幌五輪の時も札幌の民放に勤務していたが、4月の開局を控えて忙しく観戦どころではなかった。長野にも勤務したことがあるが、すでにこの時は引退していてテレビでしか観戦していない。よほど五輪には縁がない男である。せめて2020年の次の東京五輪は観戦したいものである。

韓国の”あるまじき”行為” 産経ソウル支局長起訴

2014-10-09 09:52:19 | Weblog
産経新聞前ソウル支局長、加藤達也記者がネットに書いたコラム記事が朴菫恵大統領の名誉を傷つけたとしてソウル地検が同記者を在宅起訴した。改めて同記者が8月3日のウェブサイトに書いた記事”朴大統領、客船沈没当日 行方不明 誰と会っていたか”を読み直してみたが、コラムの内容は、韓国の新聞内容や筋を明らかにした噂話を紹介したに過ぎない。菅義偉官房長官が”民主主義国家としては、あるまじ行為だ”といっているがまったくその通りだ。政府はきびしく抗議すべきである。

今から半世紀ほど前の共産国家では、報道の自由などなく自国に不都合な記事を書いた外国特派員は即時追放するのが当たり前であった。僕がまだ現役だった1967年(昭和42年)、中国北京に滞在していた日本の特派員が、朝日新聞を除いて全員追放されたり、スパイ容疑で逮捕され1年近くも拘留
された。ちょうど文化革命の最中で、わが社の場合は、たしか紅衛兵の書いた壁新聞をそのまま東京に送電したというのが追放の理由であった。

その時代、僕はインドネシアのジャカルタに特派員として滞在していたが、65年の9・30クーデター未遂事件の混乱時であったためか、日本へ送る電報記事は、すべて事前検閲があった。電話は英語以外は禁止され、すべてモニターされていた。僕らは苦肉の策として、ジャカルタから香港経由(当時は東京直行便がなかった)帰国する知り合いの日本人客に頼んんで、香港から原稿を打電してもらった。

韓国は半世紀前の共産国家ではない。れっきとした民主主義国家である。報道の自由は保障されている。まして、産経新聞のコラムが引用した韓国の新聞については、なんの”おとがめ”もない。日頃から産経新聞は”反韓””右翼”と韓国内ではみられているそうだから、これに対する”おとがめ”なのだろうが、まだまだ未熟な国家とである・

赤崎教授のノーベル賞授与と昭和一けた世代

2014-10-09 05:25:06 | Weblog
青色発光ダイオード(LED)の開発で名城大学終身教授の赤崎勇氏(85)が天野浩名古屋大学教授、中村修二カリフォルニア大学教授と共に2014年度のノーベル物理学賞を授与された。赤崎教授は昭和4年(1929年)1月生まれで、僕より2歳上だが、戦中戦後の混乱期を生きてきた同世代人、なんとはなく”戦友”的な親しみを感じる。

赤崎先生は鹿児島県知覧町(南九州市)の生まれだ。知覧は戦争中特攻隊の基地があったので有名だが、徳川時代薩摩藩の支藩の城下町があった。10数年前、僕はJICA(国際協力事業団)の”町並み保存”という研修コースのコーディネ―たーとして、この町を訪れたが、きれいな格式のある街並みがよく保存されている。赤崎先生は、少年時代、ファーブルの「昆虫記」を読んだり、昆虫採集したり釣をしたりして過ごされたという。しかし、昭和16年鹿児島ニ中(旧制)に入学した年に大東亜戦争が勃発した。鹿児島市は特攻基地があった関係から20年3月から8月までに、8回も空襲にあっている。先生はこの空襲下、海軍航空隊の格納庫建設などに学徒動員されている。

戦後21年、先生は旧制第七高校(鹿児島)に入学、さらに23年京都大学に入学した。京都大学にあこがれたのは、当時ベストセラーだった大佛次郎の書いた小説「帰郷」の京都描写からであったという。科学者である、先生の別の一面がうかがえしれる。24年、湯川秀樹京都大学教授に初のノーベル物理学賞が授与された。京都大学の学生だった赤崎先生も大きな感動を受けたに違いない。

テレビの画面で赤崎先生のお元気な姿を拝見したが、新聞報道によると数年前大病されて食事制限されておられるそうだ。どうぞご自愛のほどを。ご夫婦で元気にノーベル賞授与式に出席されてください。

民主党議員の女性閣僚いじめ

2014-10-08 06:53:15 | Weblog
昨日参院予算委での民主党議員の質問の模様をテレビで視聴した。連舫、福山哲郎、小川敏夫の顔ぶれ、三者三様”くせ球”の持ち主だが、僕の目には民主党の三年三か月の、あの”悪夢の時代”〝がよみがえってきた。民主党は、もう政権奪回をあきらめたのであろう。質問は終始、女性閣僚のあげあしとりの感。問題山積なのに時間の消費としか思えない。

第一に”標的”にされたのは松島みどり法相。東京の自分の選挙区内で催された夏祭に似顔絵の描かれたた団扇を配布したが、これは公職選挙法に触れるとして、連舫議員が例によって額に筋をよせたような顔をして追及、さらに後で質問に立った、福山哲郎、小川敏夫両議員が追い打ちをかけた。”法の番人”法務大臣としては不覚の行為だが、野党第一党の看板議員が三人がカリでの質問ではないように思うが。

最低だったのは、小川敏夫議員の山谷えりこ国家公安委員長に対する”ヘイトスピーチ”に絡む質問だ。山谷委員長が”ヘイトスピーチ”の団体「在特会」(在日特権を許さない市民の会)幹部と一緒に写真を撮った問題を取り上げ、特別な関係にあるのではないかと追及した。小川議員は、かって法務大臣時代、国会開会中の委員会室で、競馬の予想のサイトを見ていて話題になった人物。それにネット情報によれば、DVが原因で有名女優と離婚した経歴の持ち主だ。白髪一見紳士風だが質問の言葉使いが下品である。

民主党は解党への断末魔が迫ってきたのであろうか。公党として最低である。安倍総理が何回か野次を注意ていたが、ついに山谷委員長に対する野次の中で「山谷氏が在特会と”ねんごろ”なのだ」という言葉使いを巡って紛糾、会議が中断した。民主党の首席委員の連舫氏によれば、野次の主は民主党の議員だという。一体どうなっているのだろうか。

老人の独り暮らしと宅配弁当

2014-10-07 05:55:13 | Weblog
新聞のチラシに混じって、めぐろ(東京都目黒区)の区報で”お知らせします!ひとりぐらし等高齢者登録”が配られてきた。65歳以上の老人で要介護、要支援など一定の要件をみたす老人は区に登録してほしい。登録すれば色々と区のサービスが受けられる、というお知らせだ。その中の一つ”さわやかコール”は、登録者が望めば一日一回、無料で希望の時間に電話コールしてくれるというものだ。高齢者の独り暮らしが増え、孤独死が問題になっているための行政側の配慮なのだろう。

目黒区のサービスの一つに有料だが、配食制度があった。希望すれば昼食または夕食を宅配してくれる。一食当たり324円―823円とある。僕の場合,区の制度に該当しないが、今週老妻が1週間程度入院するので、娘が関係者に連絡、AB二社から、昨日、一昨日と昼食が届いた。A社は無料、B社は有料だったが、老妻と二人で試食してみた。二社とも値段の割に美味しく工夫してあったが、老妻の一声でA社に決まった。無料サービスからではなく、”塩加減”であった。

老妻や娘には悪いが、僕にとっては配食はいい迷惑だ。40数年前の単身赴任を想い出い、自分の好きなモノを勝手に食べられるチャンスだと思っていたのにだ。やはり食事は、自分の好きなものを選んで食べるのが一番である。どんなに美味しくとも”おしきせ”には抵抗がある。老妻の留守の間、何を食べようかと、頭に描いていたのに残念だ。もっとも40数年前と違って、もう80老では自然と食事の質も量も変わってきている。若く元気だった時の”夢追い人”にすぎないのだが。

戦時中はなかった台風予報

2014-10-06 05:34:15 | Weblog
台風18号が南から北へ日本列島を縦断中で、テレビの画面が猛威を伝えている。今のところ、気象台が”大型で強い台風”と予測した割には幸い大きな被害は出ていない。昨年の伊豆大島、今年の広島など台風に伴う土砂すべり被害もあって、各地とも住民に事前に避難勧告を出すなど、おさおさ警戒に怠りがない。御嶽山噴火の惨状をみれば、前もって針路が解る台風に備えるのは当然だ。

戦争中は国内の自然災害について報道管制がしかれ気象台の天気予報も禁止されていた。天気予報が3年8か月ぶりに解禁されたのは、戦後すぐの8月22日であった。亡父の日記の特記欄にも「ラジオ気象通報」復活と書いてある。庶民にとって天気予報がいかに大切なのか解る。その4日後の日記には”台風の襲来で、敵の厚木、横須賀”侵駐”(ナマ)2日間延期となる”と記されている。

敗戦の年の秋は台風が多かった。9月17日には枕崎台風が上陸、関西一帯に大被害を出している。8月6日の原爆悲劇の広島の被害が最も大きく、2000人を超す方が亡くなっている。気象台の天気予報は復活したが、沖縄が米国の占領下にあり、台風の予測気象データーが不足していたのが、台風の被害を大きくした原因だといわれている。

当時中学3年生だった僕らは10月4日から23日まで、東京の旧品川区役所付近の第一京浜国道で空襲の焼跡整理に動員された。戦争に負け軍需工場の動員から解放され教室に戻れたのに、僅か1か月で再動員である。国道脇に積まれた焼けトタンなどをトラックに積見込む作業だったが、雨の日が多く濡れながら苦労した苦い想い出がある。日本列島という地勢からみて、毎年の台風の襲来は避けられない。やはり、予報を聞いて備えるより仕方がないのだ。







「戦争と平和」 孫のアジア貧乏旅行

2014-10-05 06:53:07 | Weblog
LCC(格安航空券]を使ってアジア各地を貧乏旅行中の孫が、約1か月のインド、ネパール滞在を終え、タイのアユタヤ遺跡の前で撮った写真を母親あてに送ってきた。孫は毎日メールで滞在先と簡単な感想を母親にメールしてきているが、今は南タイのリゾート地、サムイ島、パンガン島に滞在、南国のパラダイスを満喫しているようだ。かって、タイへ旅行したこともある僕も始めて聞く島々だ。早速調べてみたが、大東亜戦争勃発時、山下奉文司令官率いる第25軍の主力、第5師団が上陸したシンゴらから100キロと離れていない。

大東亜戦争は昭和16年(1942年)12月8日早朝(日本時間)ハワイへの奇襲と同時項ごろ、マレー半島東海岸の英領コタバルへの敵前上陸で開始されたが、当時中立国であったシャム(タイ)の海岸,シンゴラ,タべ、バター二にも日本軍は上陸している。コタバル上陸戦の陽動作戦と言われているが、山下将軍始め、ほとんど全員無事に上陸に成功している。しかし、タイへの事前通知が遅れたため、タイ軍との間で衝突があり一部犠牲者が出ているが。

これに対して、コタバルはあらかじめ日本軍の上陸を予期して海岸はトーチカで厳重に防備され、さらに悪天候もあって上陸に従事した第18軍支隊は300人を超す大きな被害を受けている、上陸成功後、現地はイスラム地域でご遺体を荼毘(だび)にふす施設がないため、ご遺体は小舟に載せて、仏教圏のタイ領まで運んだと、当時の記録にある。痛ましい限りだ、

僕の先輩の今沢栄三郎さん(100歳)も第5師団兵士としてシンゴら上陸作戦に従事しているが、当時上陸作戦の前線に立ったのは20歳代の若者であった。考えると、いま南国の島で青春を楽しんでいる孫と同じ年齢なのだだ。改めて「戦争と平和」について考え、平和の重みを知った。

ジャワ元義勇軍兵士からの御嶽山噴火見舞

2014-10-04 06:37:06 | Weblog
インドネシアの中部ジャワの田舎町テマングン(Temanggun)に住む、日本軍政時代の義勇軍兵士、バンバン.プルノモさん(89)から、昨日御嶽山の噴火につぃて丁寧な見舞いのメールが届いた。
「Saya ingin menguucap ikut bercita cita yang selama -dalamnya atas musiba melutuskan gunung Ontake yang mengakibat orang meningalkan」(御嶽山の噴火と被害者の方々に衷心よりお見舞い申し上げます)

テマングンは2010年10月から11月にかけて大噴火し、300人が死亡し、20万人以上が避難したムラピ(Merapi)火山の近くにある。12年僕がテマングンを訪れた時も噴火後発生した土石流の傷跡が痛ましく残っていた。テマングンの町自体もスドノ、スムビ両火山に囲まれている、こういった自然環境に住んでおられるだけに火山の噴火には特に関心をお持ちなのだろう。

中部ジャワの首都ジョクジャカルタのガジャマダ大学には「砂防技術センター」という研究機関がある。1982年、JICA(国際協力事業団)の技術協力で設立された。当時、僕は東京で、この機関から派遣された技術研修員のコーディネ―ターをしていて、日本各地の砂防施設を視察したことがある。JICAの技術協力としては古く、すでに20数年経過し、今では「砂防技術センター」は、世界の火山災害の研究機関の中心になっおり、インドネシア人技術者が、世界各地に指導のために派遣されている。

インドネシアは、日本とならんで世界でも有数の火山国である。僕が今回、御嶽山の噴火で意外に感じたのは、わが国の噴火予知研究があまり進んんでいないということだ。インドネシアの場合はどうなのか知らないが、人類のため、お互いに協力しあうことは必要だ。御嶽山噴火を機会に国際会議を開いてはどうだろうかー。

「平均寿命」と「健康寿命」との間の期間

2014-10-03 05:22:08 | Weblog
厚労省の国民生活基礎調査から割り出した2013年の日本人の「健康寿命」は、男性71.19歳、女性74.21歳だ、と新聞に載っていた。「健康寿命」とは”健康上の問題なく日常生活を送れる”期間をいうそうだ。83.7歳の僕は、これを読んで一瞬、自分の長寿の喜ぶに感謝した。”よくぞ、これまで元気に生きてこられたという喜びである。

しかし”待てよ”である。今日も4日続けて病院通いである、自分では昨年暮、膝の人工関節置換手術に成功、入院生活で体重が10㌔ダウン、その副産物として血糖値も血圧も正常に戻った。今は医師の指導で一切、薬はのんでいない。しかし”好事魔も多し”というか、定期のメディカル・チェックで大腸がんが検知されてしまった。11月入院手術と決まったが、その準備のための検査通院である。

国立病院はいつも満員であるが、とくに僕らと同世代の老人、それも車イスで配偶者の世話になっている老夫婦が多い。その点、僕らは自分の足で歩行できるし、子供たちの面倒にもならずにと思っていたが、やはり加齢なのだろう、考えると、僕は昨年も1か月余、入院しているし、今年もまたである。これでは”健康上、問題ない”とはいえない。

日本の男性の平均寿命は79.4歳である。超高齢化時代の到来で、僕の周囲にも80歳、90歳、100歳の友人、知人が大勢いる。しかし、厳密な意味での”健康寿命”となると、厚労省の調査に現れた数字なのだろう。老人が”健康上の問題なく日常生活を送る”のは、まづ至難に近い。いかにして「平均寿命」と「健康寿命」との間の期間、幸せに暮らせるかが問題である。

 「長幼序あり」世代の感情暴走抑止法

2014-10-02 06:11:01 | Weblog
NHKの朝の情報番組「アサイチ」で昨日”シニア世代はなぜ感情暴走するか”を特集していた。年を取ると、若い時に比べて感情が不安定になり、怒り安くなるのは事実だ。加齢とともに仕方がないのだろう。だが、80歳代も半ば近くになると、さすがに暴力を振うことはない(振えなくなったのかも)。超高齢化時代、年寄りといっても65歳から100歳までは35歳も幅がある。

昭和1ケタ世代の大半は、戦前教育勅語の下で教育を受け、”長幼序あり”〝師の影は踏先ず”的な環境で育った。だから今でも狭い道で前から自分より年長者が来れば、相手を先に通す習慣が身についている。公共交通機関でもそうだ。お年寄りには黙って席を譲る。しかし、最近の若い世代は、狭い道で危ないと思い、こちらが立ち止まっていても、知らぬ顔でスマフォンに夢中になっている。

このところ、入院前の検査のため連日病院に出かけている。60歳代、70歳代の時は病院関係者の言葉使いに腹をたてたこともあったっが、最近は”感情暴走”することはなくなった。こちらが耳が遠くないのに大声で、しかも幼児扱いする看護師さんが今でもいるが、僕は逆に敬語を使い、これ以上ないほど丁寧な対応をすることにしている。

知人のケアマネジャーが言うには、最近の”若い”お年寄り”は、昔の年寄りに比べて対応が難しくなってきたという。戦後生まれの年寄りは自己主張ばかり強く協調性がないとのこと。一概に年寄りといっても「教育勅語」を知らない世代なのである。