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☆=☆☆☆☆☆
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太陽の蓋

2018年08月31日 01時36分25秒 | 邦画2016年

 ◎太陽の蓋(2016年 日本 130分)

 製作/橘民義

 監督/佐藤太 音楽/ミッキー吉野

 出演/北村有起哉 三田村邦彦 神尾佑 青山草太 菅原大吉 中村ゆり 袴田吉彦 伊吹剛

 

 ◎2011年3月11日、首相官邸

 おもいきり、めいっぱいの映画だった。

 つまりは当時の総理官邸が東京電力からつんぼ桟敷に置かれていたっていうことがこれまでどこにも触れられていなかったことで、もしもこれが真実であるとするのなら、ちょっと怒りの鉾先は東電に向かう。また同時に、メルトダウンした場合にどうすればよいのかというマニュアルを、原発を作り続けてきたこれまでの政府がなにひとつ残してこなかったのかまじでっていう怒りもまた覚えてしまう。

 ただまあ、これは映画の中身がすべて真実であるという前提に立つ。このあたりは難しい。映画でも福島第一原発の現場は誰よりも勇気をもって処理と対策にあたっているからね。

 ところで、この映画が惜しいのは、ロングの画面がないことだ。モブシーンがまるでないのは観ていて辛い。テレビサイズの映画になってしまっているのはなんとも辛い。浜通りの人々がどのような気持ちで避難せざるを得なかったのか、1Fの従業員たちがどのような作業に入ったのか、第四がメルトダウンしてしまうのかもしれないという不安とたまたま水が入ったことで救われたという偶然の産物によって日本が救われたという事実についてもう少し押した方がよかったんじゃないかっておもうわ。

 ただ、こうした本気で映画でなにかいおうとしている作品はこのところの邦画界には皆無で、この作品で訴えようとしていることが真実か否かということについては観客が感じていくことだろうし、それについてどうのこうのいうつもりはない。でも、ひとつの事象について映画会社が本気で取り組もうとしている姿勢はまるで感じられない昨今、この作品はある種の意義を持っているような気がするんだよね。

 それと、この手の作品は脚本は、ひとりで書かない方がいいね。複数の意見を戦わせることでさらに客観的に作品を眺めることができるし、福島の地形や原発の設置された理由や情況からなぜ原発があんな事故をひきおこしてしまったのか、これは人災だったのではないかとか、そういう点をもうすこし明確に語ることができたんじゃないかっておもうんだよね。

 ちなみに、この映画にはスピンオフが3本あって、第1話が「報道の行方」で、第2話が「僕たちがいた町」で、第3話が「最悪のシナリオ」ってことになってるんだけど、もともと脚本に組み込まれていたものをカットしたようにも感じられる。とはいえ、そのあたりはよくわからない。ただ、カメラがまるで違ってて、演出もなんというのかひと時代前の教育映画っぽい印象を受けちゃうのはなんでなんだろう?

 あと、この映画で興味深い場面は3つあって、これは見どころだともおもえたりするけど、どうかな?

 ひとつは、北村有起哉が奥さんの中村ゆりに電話で「西へ逃げた方がいい」と伝えようとするところだけど、でも中村ゆりはこういうんだな。西へ逃げたところでそこにも原発はある。この国はどこへ逃げたところで原発からは逃れられないのだと。まあ実際そのとおりで、原発はどこにでもある。全面的に稼働を停止していた状態は1年と11か月というきわめてわずかな期間でしかなかったものね。

 で、もうひとつは、4号機に使用済み核燃料が1500本あまりも存在していて、これも結局、融解してしまっていて、たまさか注水されたからよかったものの、これはまさしく偶然以外の何物でもなく、この天が守ってくれたとしかおもえないような事態がなければ、大変なメルトダウンが起きて、福島原発から半径250キロ圏内は人が棲めなくなっていたかもしれないというやりとりにいたるところだ。真実なのかどうか、ぼくは知らない。けれど、そうした予測を立ててしまえるような物がこの国にあるのは事実なんだろうね。

 最後のひとつは、冒頭の場面が都内の雨だということだ。上記のやりとりをしている場面も、雨だった。事実、福島原発が爆発した翌々日、東京は豪雨に見舞われた。あの日の雨を眺めていて、おもいだしたのは今村昌平の『黒い雨』と小村孝太郎の『ワースト』だった。あの雨を浴びた都民は決して少なくないはずだけど、みんな、放射線量については検診して計測したんだろうか? 

 ま、そんなところかしらね。

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