今日は節分、京都市内の社寺では節分行事が盛んだ。つまり旧正月の行事であるから盛大に行われる。だが最近節分行事も人出が大変多くなってきたし、イベント的趣が濃厚なので私は撮影には行かない。精々面白いのは吉田神社の火炉祭ぐらいか。
それに恵方巻という習慣が好きになれない。明治の頃に大阪の海苔問屋が始め、近年になりセブンイレブンが一般化したわけだが、習慣的ないわれは皆無である。つまり商売繁盛を意図したものであり、歴史性はなく、大いに迷信といってよかろう。
そんなわけで今日は愛知県・足助城址公園へ出かけた。戦国時代の城の復元である。一般的には城に対する誤解が幾つかある。今日は、それを解いてゆこう。
先ず城のシンボルである天守閣は、安土城以降江戸時代のもであり、藩主の意志を表現したシンボルぐらいの意味しかないこと。本来の要塞としての城には、天守閣はなかった。
江戸期の藩主は、城に住むことはない。城は山の上などに設けられ大変不便なので、平時は藩政を行うために町の中に二の丸や三の丸御殿をつくり、そこで生活していた。従って城は戦の時の籠城するための備えにすぎない。実際江戸期には戦はなかったので、城が要塞としての役割を果たすことはなかった。城が戦で落城したのは幕末の西南戦争における熊本城ぐらいである。
城とは何か?、それは天守閣ではなくその塀で囲われたオープンスペースのことである。戦の時は何百、何千という兵士が城に立て篭もるので、そこで野宿をし、飯を食べ、武器の手入れをしたりできるための広いオープンスペースが必要になる。それに藩主用のたてこもり兼武器や食料保存庫としての天守閣が設けられていたにすぎない。四国・松山城がその典型例である。つまり城は籠城する兵士達が野宿するためのオープンスペースと兵糧などを蓄えた天守閣と呼んだ倉庫とで構成されている。
そこで足助城は、1525年頃創建され、1590年に廃城となる。まさに戦国時代の定型的な山城である。これが城の原型の一つでもあり、防衛上の砦として城が機能していた頃のものであろうといえる。
さて節分があければ、明日は二十四節季の一つ立春である。春の気配が起きてくる頃といったらよいだろうか。ようやく春の弱々しい光を感じさせてくれる。
愛知県・足助城址公園
Fuji FinepixS5pro,Distagon25mm/F2.8
ISO100,露出補正-0.3,F/8,1/114
それに恵方巻という習慣が好きになれない。明治の頃に大阪の海苔問屋が始め、近年になりセブンイレブンが一般化したわけだが、習慣的ないわれは皆無である。つまり商売繁盛を意図したものであり、歴史性はなく、大いに迷信といってよかろう。
そんなわけで今日は愛知県・足助城址公園へ出かけた。戦国時代の城の復元である。一般的には城に対する誤解が幾つかある。今日は、それを解いてゆこう。
先ず城のシンボルである天守閣は、安土城以降江戸時代のもであり、藩主の意志を表現したシンボルぐらいの意味しかないこと。本来の要塞としての城には、天守閣はなかった。
江戸期の藩主は、城に住むことはない。城は山の上などに設けられ大変不便なので、平時は藩政を行うために町の中に二の丸や三の丸御殿をつくり、そこで生活していた。従って城は戦の時の籠城するための備えにすぎない。実際江戸期には戦はなかったので、城が要塞としての役割を果たすことはなかった。城が戦で落城したのは幕末の西南戦争における熊本城ぐらいである。
城とは何か?、それは天守閣ではなくその塀で囲われたオープンスペースのことである。戦の時は何百、何千という兵士が城に立て篭もるので、そこで野宿をし、飯を食べ、武器の手入れをしたりできるための広いオープンスペースが必要になる。それに藩主用のたてこもり兼武器や食料保存庫としての天守閣が設けられていたにすぎない。四国・松山城がその典型例である。つまり城は籠城する兵士達が野宿するためのオープンスペースと兵糧などを蓄えた天守閣と呼んだ倉庫とで構成されている。
そこで足助城は、1525年頃創建され、1590年に廃城となる。まさに戦国時代の定型的な山城である。これが城の原型の一つでもあり、防衛上の砦として城が機能していた頃のものであろうといえる。
さて節分があければ、明日は二十四節季の一つ立春である。春の気配が起きてくる頃といったらよいだろうか。ようやく春の弱々しい光を感じさせてくれる。
愛知県・足助城址公園
Fuji FinepixS5pro,Distagon25mm/F2.8
ISO100,露出補正-0.3,F/8,1/114