飛行機に乗るとき文庫本を必ず持参することにしている。フィリピンに出かけた時に、島本理生「Red」中公文庫、2019、を持参していた。この小説が半分未読だったので、今回の沖縄もこの文庫本だ。
幼稚な志向性が抜けない夫と、この両親と同居する恋愛慣れした30歳主婦塔子には、かわゆい子供翆がいて、姑とも仲が良く、恵まれた環境だった。かっての恋人との偶然の再開で、仕舞い込んでいた彼女の夫に対する不満や疑問が一つずつ姿を表し快楽の世界へも引き込まれ、最後は別居してしまうストーリーだ。
まあどこにでもよくある話なのだが、男に対する仕舞い込んでいた不満や疑問が、昔の恋人との激しいセックスを契機に次第にわき上がる塔子の心模様が興味深かった。
そうした一部をP376から引用しよう。
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「あなただって親でしょう!、それなのに一度だって一人で翆をみてくれたこともなく、私が保育園を探しているときだって知らん顔で、仕事辞めたときだって困ってないからいいだろうと言って、働き始めてからなにもしてくれないじゃない!、じゃあこっちで勝手に預けてなにが悪いの」
「な、なんだよいきなりっ。なにもしてないわけじゃないだろう。塔子が留守のときには、俺だっておふくろと飯食わせたり風呂入れたりしてんだよ」
「そんなの、全部お義母さんが手伝ってくれるんじゃないっ」
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男は概念的とかシステム的かつ傍観者的に考えるが、女は具体的なミッションを要求するわけ。つまり家事や育児は具体的な現場のミッションがあって成り立つから、概念的やシステムでは、なんの役にも立たない。必要なのは行動なのだ。そうした男と女の考え方の違いが家事を契機としてすれ違い、ストレスややるせなさとして蓄積し、やがて暴発とか破局の構図になっていゆく。そんな男と女の意識がすれ違ってゆくプロセスをこの小説は、巧みに描いている。
つまり世の中の家事や育児は、概念やシステムをあてがえばよいというモノではなく、自らが行動する必要があるミッションなんだ。それを理解しない男と、理解している女がいて、お互いの意識がすれ違うという構造になるんだろう。つまり現場を理解したつもりになっている人間と、現場の問題とモロに遭遇している人間とがいるわけだ。
こううことは現場感覚といってもよいだろう。建築プロジェクトをしていたときも絶対に現場に足を運ばないディレクターがいて、彼とはどう説明しても話が通じなかった経験があった。つまり現場をしらないのだから、何をいっても理解できないのだ。それを文科系的ロジックで理解してといわれても、私には現場を把握できたとはとても思われないし、こちらはそれ以上は無理だと説明をあきらめたこともあった。このように現場を理解した気分になっている立場と、現場で問題に直面して解決しようとしているいる立場とは全く意識も行動も違うのであり、そこにズレが発生するのだろう。前述の小説の話は、このことと類似しているように思われる。
つまり現場感覚ということがものすごく重要な概念になっているわけだ。生活においても家事や育児こそ、まさに現場そのものだ。女達は、そんな現場から声を発し、男は現場とは無縁の傍観者的立場から発言する。そりゃ男と女の意識も真っ向からズレるはずだ。やはり現場感覚は必要な能力だと思った。私も男だから、そんなことをつい忘れるところであった(笑)。
だから男達も育児や調理ぐらいは自分でやることからはじめた方がよいことになる。つまり現場に足を運ぶというわけだ。
クロッキー帳NO42.