Creator's Blog,record of the Designer's thinking

フィールドワークの映像、ドローイングとマーケティング手法を用いた小説、エッセイで、撮り、描き、書いてます。

ドローイング926. 小説:小樽の翠835.幕間 

2024年10月11日 | drawing

 もしこの小説を書かなかったら冒頭の画像の範囲ぐらいの観光コースしか歩かなかった。実際に札幌でのデザイン学会大会の帰路に立ち寄ったときの小樽ではそうだった。
 この小説を書くようになってロケハンのつもりで小樽の奥まで入り込んだら生活感あふれる街の姿があった。そして雪の時が魅力を倍加させ、このブログでもそうした画像を多々アップさせてきた。
 当時小樽の商店街や住宅街の路地裏を撮影した画像はWEB上にはなかったし、地元の人だってこんなところが面白いの?、と考えていたかもしれない。
 そうなると建築分野のフィールドワークなんて随分と薄っぺらだと思われた。
 それが小説のロケハンになると、小樽の生活はどんなかとする視点で、ここが主人公の家で、ここがツカモッチャン家で、通学路をゆけば小春が通う菁園中学校があり、入船町の交差点の生協や神仏湯の家族風呂などが舞台になったり、また文さんの居酒屋はナンタルのこのあたりといった具合に、小説の中で登場人物を交えた小樽の街が形成されてくる。ここまでくると街歩きも俄然面白くなる。
 つまり小説家は、そうした最も面白い街歩きをしているといえそうだ。そしてイメージを膨らませていった。そんな旅をしたければ小説でも書くほかないでしょう。
 何故そんなことを考えたかというと、仮にこれを映画にした場合、舞台をどうするのだろうかという話である。映画監督は、原作から小説の舞台をどのように設定してくるのかは一寸興味深い。そして映画では舞台となる街の空気が色濃くにじんでいる。
 例えばフーテンの寅さんをみると、現実の街が映画の中でさらにブラシアップして私達に柴又という魅力的な街に仕立て上げてくれる。それは映画の中だけにつくられた柴又の街イメージといってよい。だから実際に映画の舞台を訪ねると、こちらは白けた気分になる。
 さてトップ画像周囲の民家は現代人が抱く小樽の街イメージに近いが、周囲とは少し趣が違う中央の古民家は明治期前半につくられたものである。明治の小樽、それは現代人が考えもしなかった街の景観を呈していたことがわかる。
 現実の街、小説のなかの街、そして映画の舞台となった街、過去の街、それらは同じ地名であってもすべて異なるイメージをもっているということだろう。

2台のOLYMPUSで撮影。小さいから容易に持ち歩けた機材であった。

小樽市
OLYMPUSPEN E-P3,Leica DG Macro-Elmarit 45mm F2.8 Asph.
OLYMPUSPEN EM-1,M.ZUIKO9-18mm F4.0-5.6
コメント
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