Creator's Blog,record of the Designer's thinking

フィールドワークの映像、ドローイングとマーケティング手法を用いた小説、エッセイで、撮り、描き、書いてます。

Nikon Freak162. 旧筑波第一小学校体育館

2018年03月16日 | Tsukuba

 19873月の日曜日に誰が言い出したかは記憶にはないが、私と海外から帰ってきたT君と、今筑波大学の先生であるW君とM君の四人が筑波大学の建築研究室に集合した。日曜日だから誰もいないのは幸いだった。

 これからW君のフィアットで私達の大学時代の指導教官である下山眞司先生が設計し、当時建設中であった筑波第一小学校の木造体育館を見に行こうというわけだ。オール木造の体育館は、全国でも珍しい建築だ。

 筑波神社の麓の門前町の一角、梅の木が残る曇天の春であり、この辺りには雑木と小さな畑と路地のある微地形がとても居心地よい環境だ。田舎の工事現場だから仮囲いもなく、なんなく工事中の建築の中にはいれたりはラッキーだった。足場をいくつも登り体育館の屋根部分まで上がれた。同行のT君が棟木と下の梁との僅かな隙間に彼の名刺をみえないように差し込んでいた。

「こんなことすると建築家はいやがるだろうな」と笑いながら。

 まあ見に来たよという挨拶のつもりで。さてその名刺は発見されたか、あるいはそのまま今も棟木の下にあるのだろうか。

 私達4人はつぶさに見学した後、W君の煙を噴くフィアットで東京へ戻り、たまたま入院中のW君の奥さんであり我々の後輩であるW女史の見舞いに駆けつけたのだった。そこで途中で買い込んだ焼き芋をみんなで病室でほおばっている写真が今も手元にあるが、なんか幸せな空気が漂っていた。

 今筑波第一小学校は児童数低減のため廃校にされている。昔から門前町には旅館が多々あり、そこの師弟達が通っていた小学校であった。それがつくば市の都心の方が便利だというので転居してしまったようだ。その観光地も往事の面影はない。つくば市の統計によれば、筑波山の観光客数は2014年で年間入込者数170万人位であり、2007年以降一貫して低減し続けているし、筑波山の足であった関東鉄道筑波線も廃止されてしまったから、昔のスタイルの観光地が抱える共通の選択に迫られるのだろう。このまま残すのか、規模縮小して普通のリクレーション地にするか。通例は後者になる。

 従って廃校になった筑波第一小学校の校舎や木造体育館は、そのまま通信制の私立学校として今も利用されているようだ。多分下山先生に言わしめれば、「そんなことは最初からわかっていたの!、いまも役だっているじゃん」、といわれそうであるから、我々は寂しい顔はしないことにしている。

 

茨城県つくば市

NikonF,Nikkor H Auto28mm/F3.5,コダカラー

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Nikon Freak161. 科学のメス

2018年03月15日 | Tsukuba

 東北大震災から7年目である。この頃F1では建屋が水素爆発をした画像を入学試験解答の採点中にスマホでみた。そんな土地と建物との関係性に着目しなかった典型例がF1であり、津波で流された町である。

 本来東北地方は、私の記憶でも三陸地震沖津波、チリ地震沖津波と、津波が押し寄せてきている。それに岩手県宮古市重茂姉吉地区には、大津波記念碑が建っており後生に警鐘をならしている。記念碑海抜60mの位置に建てられているから、地形の関係上その高さまでは津波が押し寄せてきたという歴史がある。だから10m程度の地盤のかさ上げではあまり意味が無い地形も東北地方にはある。東北復興は、地盤の固いところを探して高台移転が唯一の正解であり、それ以外の方法はありえない。

 津波は三陸の話であり福島は関係ないでしょう。といったかどうかはわからないが、災害は県別にやってくるわけではないし、東北地方に平行して太平洋プレートが潜り込んでいるのだから、青森県から千葉県までは津波の可能性をもっているとする地学的解釈は、F1がつくられた頃でも理解できたはずである。

 にもかかわらずF1の電気設備を津波で失うような設計にしたいきさつや意思決定のメカニズムはどうなっていたのか、そのとき何故津波の可能性を考えなかったのか、何を安全の評価基準にしたのか、津波の危険性を指摘した技術者はいたはずである、何故無視されたか、あるいは津波に耐えられるとする判断はどこからでてきたのか、もっといえば何故高台に原発をつくる計画にしなかったのか、それらのことについて個人の責任問題にするのではなくて、プロジェクトの構造自体に工学あるいは科学のメスのいれるべきだと考えている。

 もちろん国や企業がいうところの安全は、文化系の話だからいつも神話である。科学的にみれば、どういう前提条件で安全だと評価したのかということである。その評価基準が想定外であれば、安全というものはいつも神話でしかないわけだが、その程度の知見でお終いでは工学やさらには科学の世界にいるとはいいがたい。

 そのあたりの意思決定やヒューマンファクターを科学的に解析し知見を得て後生への警鐘とするのであれば、先の大津波記念日と同様の意味をもつ。しかし、そんなデータがあるかどうかもわからないし検証する活動も聞こえてこない。

 本来ならば、そうした科学的検証をして知見を得てこそ災害を風化させない唯一の方法なのだが、センチメンタルなイベントとマスコミアピールで終わろうとしている。それじゃ本当に風化するだけだよ。東北大震災やF1の問題を風化させたくなかったら、後生に何を伝えるべきかとする知見を科学のメスを用いて明らかにすることでしょう。

 さて堅い話になったから話題を買えて、確定申告の列に乗って還付申告も終わり、一つ仕事がかたずく。新聞をみると森友問題で騒がれているが、そんな他人の財布の中などどうでもいいのよ。100兆円国家のスケール規模からすれば8億円なんて端数処理の部類だろう。それよか経済をもう一寸。日本はGDPの割には、世界ランキングが低くすぎるのよ。つまり世界からあまり信用されていないのが現実。

 日本は国債などの借金が1,000兆円あるけど、国家の場合は借金という概念が本来成立しない。だってお札をドンドン印刷して社会に流通させれば借金棒引きになるからね。

 さてデスクの中から換金していなかった郵便局の小切手がでてきた。おおっ、これでα6000の16mmのレンズを買おうというので中古屋にはしりころのよい商品をゲット。まあSONYのボディに一つぐらいフルオートで使える純正品が欲しいよな、といって本気モードではないので中古でいいさ。PENならレンズは揃っているのになんでSONYか。つまりSONYの純正裏面照射型COMOSセンターを試してみたかったわけです。

 国家に比べると、なんともつつましい還付金だのデスク小切手だのとせこい話で時間をつぶされる。α6000を小脇に抱え古い町へ行きたかったのだが。

 

茨城県新治郡筑波町

NikonF,Auto Nikkor-P105mm/F2.5,コダカラー

 

 

 

 

 

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Nikon Freak160. 風土的了解の姿

2018年03月14日 | Tsukuba

 筑波の田舎を自転車で走り回っていると、大きく成長した防風林に囲まれた集落が多い。それもそのはずであり、ここは筑波下ろしと呼ばれる風の強いところだ。その筑波下ろしが吹いてくる方向に防風林が設えられている。ときには集落全体が大きく成長した防風林に囲まれており、集落の中に入ると風も無く日差しが心地よい。それが大変美しい風景を形成している。

 それは、この土地に長く棲み続けてきた人たちの経験と知恵の結実したものであり、そうした風土的了解の姿が、私達の眼前に現れる。それは土地と建物の関わり型のデザインといってもよい。つまり集落全体の配置が、強い風に耐え快適環境をつくりだしている。

 そうした風土的了解の姿に反して建てられるのが現代住宅である。ここは風が強いだろうと思っていても、そんなのとは無関係に家々が立ち並んでいる。当然土地と建築との関わり型などは無視されて、機械的に正系の敷地である。筑波下ろしは壁やアルミサッシといった密封された居室を構成する素材群で建築性能が満たされるためである。それが満たされれば風が吹いてこようが豪雨が降ろうが関係ないというわけだ。実際居住者達は風がとても強くて、ときには家が揺れるぐらいという話は聞いた記憶がある。

 だから時折防風林で囲われ屋根しか見えない集落の中に、突然2階のアルミサッシの窓が見えたりする。それは、もちろん現代建築なのである。思うに建築性能に依存していて、私達の暮らしは本当に楽しく快適なのだろうかという疑問も沸いてくる。

 風の強い時は、揺れる家の中にこもるほかない。シャッターを降ろした洞窟のような空間で、コミュニティもなくテレビをみたり、趣味に没頭せざるを得ない生活が本当に面白いのだろうか。もっといえば土地と建物との関わりを無視した住宅の作り方が正解なのだろうかということである。

 古来から建物が建てられる土地は、洪水や土砂崩れの少なく且つ生業とのバランスがとれる土地に建てられている。そうして集落全体で防風林などを用いて自然現象をかわそうとしているのである。そんな古人の歴史的知見や建築集合体としての工夫、そうした風土的了解の知見もなく、さらに土地と建物との関係性を無視した現代住宅は私にいわせれば間違った建て方なのである。だから土地が陥没したり土砂崩れに遭遇したりといった自然災害に出会う機会が新興住宅地は多い。やはり土地と建物との関係性、つまりサイトプランが大変重要になってくる。

 最近古来からの集落も人口減少で空き家が目立ってきた。いまが住み込むよい機会だと思われる。本能的にめざといアーティストなどが、そんな集落に住んでいたりする。屋外のスペースがあり、防風林に囲まれているので、風の強いときでも仕事ができるというわけだ。

 そんなことを実感したければ、台風銀座の沖縄県備瀬をみればよい。何百年にも渡って成長してきた福木の防風林が、海沿いにいることを忘れさせてくれるように、良好な得がたい居住環境を形成している。

 

茨城県新治郡筑波町

NikonF,Auto Nikkor-P105mm/F2.5,コダカラー

 

 

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Nikon Freak159. 日常の風景

2018年03月13日 | Tsukuba

 このブログの画像は、可能な限り直近画像をアップさせているのだが、先日10ヶ月分の画像を誤って消去してしまった。画像から受けるインパクトをヒントに原稿文を書いているから、なんかしら記憶にある画像でつなげよう。目下仕事の合間にネガフィルムのデジタル・デュープ作業を継続しているので、これを使おうか。

 私が住んだあるいは関わり記憶が濃厚な都市は、東京、筑波、横浜、名古屋、京都、沖縄である。そんなネガフィルムの中で、筑波をとりあげよう。私が初めて訪れた筑波大学は雑木林の中にポツネンと槇文彦さん設計の校舎が建っているだけだった。それから一気に開発が進みいまはつくば市となり鉄道も走り東京の郊外都市である。そんな筑波の記憶を掘り起こしてみようか。

 筑波大学には、間をあけて都合3回通った。学部、大学院修士課程、博士論文執筆のための研究生とである。この画像は、大学院修士課程の時に自転車で大学の郊外へ赴いたころであろう。何かの課題のロケだったか、あるいは気まぐれに走っていたかは覚えていない。だがそうした徘徊の中で結構良い風景に出会っていた。問題は記録していたかだが僅かに記録したネガから掘り起こしてみよう。

 こうした風景は、日本のどこにでもある風景なのだが、そんな田舎の風景を一つぐらい自分の人生の中で記憶に持っているというのも幸せかもしれない。それは旅のように通り過ぎて忘れ去られる一過性の風景ではなく、ふるさとのようなメンタルなモノでも無く、それでいてなんらかの関わりをその土地と持ちながら何回も見た日常の風景だからだ。そんなふうに、ある時期に仕事場が田舎だったという経験をする人は結構多いと思われる。

 そこが少し変わった経験でありなポイントでもある。ネガのデジタルデュープをしていなかったら埋没していた画像である。

 さて、あら!、SONYα6000が買えてしまった。コンデジ並の39,000円ぐらいだった。あわててLeitz用のマウントアダプターを追加する始末。PEN Fも大変欲しいデザインだけど、それよりは半分以下の価格で性能はPEN Fよりは上。つまりコストパフォーマンスが高い機材だ。撮影素子の大きいAPSサイズのマイクロフォーサーズだし、連写11枚/秒、複数の人に同時にピントを合わせるなんざー位相差検出方式のAFでないとスムーズにはゆかないでしょう。まあこれでニコンのフルサイズ・マイクロフォーサーズがでるまで耐えしのげる。いや、そんなのださなくてもよいと思う場合もあるかな・・・。

  そんなことを確定申告の合間にしていたわけだ。そんな道楽がないと、こんな書類作成は意欲がわかない。おや、一寸だけだがα6000を買ってもおつりが少し来る程度の還付申告でニヤリ。うちは、こういうところで幸せ感を感じる庶民ですね。還付申告でSONYα。これは嬉しい日常の風景でした。

 

茨城県新治郡筑波町

NikonF,Auto Nikkor-P105mm/F2.5,コダカラー

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番外編319. PENTAX MEとSONYα6000

2018年03月12日 | Photographic Equipment

 少しフィルム時代の話から・・・。

 フィルム時代に、心理的かつ経済的に負担がすくない撮影機材にPEWNTAX MEがあった。なにしろ某所のロッカーの奥に忘れ去られたように放置され動かなかったから存在自体が身軽だ。だから私費で修理にだしたら修理代が15,000円と当時としては少し高かったが、見事に生き返って戻ってきた。メーカーから機材をもっと使ってくださいとアナウンスされた。価格も安く性能も良いので良心的なメーカーだった。

 でっ、小さくて操作も簡単なので私はスケッチのお供にしていた。これだけあればなにもいらないやという気分にさせてくれたから名機の一つだろう。そんな身軽で経済的で使いやすいPENTAX MEであったが、あるとき誰かが気軽にもっていったのであろうか、横浜時代既に私の手元からなくなっていた。若い頃からPENTAXを使い続けていれば、もう少しまともな人間になったと思うが、もらい物のCanon6Lから乗り換えるとき、コンプレックスの反動か、見栄を張ってNikon Freakになってしまった。まあそこから人生の道を踏み外したのだが(笑)。

 踏み外したついでに今のデジタル機材をみると、Nikonがなかなかミラーレス一眼レフをださない。何をもったいぶっているんだろうか。

 それよかSONYα6000が型落ちしているがコストパフォーマンスがとても高い。ある時量販店バーゲン価格がボディ単体で30,000円という数字をみた記憶がある。今のミラーレスデジタル機材の私の条件は以下。

1)裏面照射型COMOSを搭載していること。光情報を最大限とることができるので抜けがよく色は大変綺麗だ。しかも夜に強い。

2)位相差検出方式AFセンサーがついていること。いまの主流だろう。

3)高速連写。α6000は0.06秒の高速AFやAF追随11コマ/秒の高速連写だけど。

4)ライツレンズアダプターがあるなどサードパーティーの環境が整っていること。ライツレンズ専用ボディにするなんてなんてググッと来るし、既にαシリーズは、販売後後4年は経過しているのでサードパーティーの環境がそろっていることはシステムとして完成度が高いことになる。

5)ローコスト。α6000はオリンパスPEN Fの半分の価格。

大体コンパクトデジタル機材並に安いミラーレス一眼レフがあるのだから、その感覚は昔のPENTAX MEのときの肩のこらない気分と似ている。こんどは肩のこらない人生を歩こうか・・・。

 それに引き替え、これから!、ニコンのミラーレスですかぁー!!。ニコンはあまりにも遅すぎた。儲からないから開発意欲のなさが最近の代わり映えのしないデザインにでているのだろうか。それに撮影素子がSONY製だが、容易にSONYからニコンへ最先端技術が提供されないでしょう。従って今のミラーレス撮影機材のお勧めはSONYになる。

 そんなわけでニコンミラーレス熱が最近冷めつつある。PEN Fは高くて1)と2)を満たしていないし、SONYα6000は1)〜5)を全部満たしていてコストパフォーマンスが高い。結論はSONYα6000となる・・・。標準レンズを付けてもPEN F以下の価格、即調達するか、あるいは手元のレンズが全部使えるだろうニコンフルサイズミラーレスを待つか。・・・あやうく41,000円で調達するところだった。タッチの差でSoldされてしまった。

 

1990年、NikonF4、AF NIKKOR MACRO60mm/F2.8,コダックトライX

 

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番外編318. 卒業式の音楽はサティスファクション

2018年03月11日 | field work

 これも鉄ちゃん同伴の1日旅だった。早朝の室内が木製(木目では無く本物の木の壁)の湘南電車の旧型車両ででかけた。根府川まで来ると、ここからいまはない東京行きの多くのブルートレインが撮影できるわけだ。そうした根府川橋梁は鉄ちゃん達の間では有名な撮影スポットなのだが、そこは無視して新たな撮影ポイントを探した。今みるとよく行き当たりばったりで、こんな素晴らしいポイントにたどり着けたと思われる。多分国土地理院の1/25,000の地形図を持っていたことと馬力があったんだろうな。

 画像は、ちゃんとブルートレインが北上しているのが写っているが、関心はいくつも海にせり出した海岸段丘の地形や、そこに点在する民家などを眺め回す面白さに移っていったのだろう。そのことが後にランドスケープに関心を持つ下地となっていった。それには少し長い時間が必要だったのだが。

 そして次第に鉄道から関心が引いてゆき撮影も卒業し、そして高校3年生の秋のある日から学園紛争で校舎の一部がロックアウトされ、毎日がホームルームというわけのわからない日々が続き、そして卒業式の日まで授業らしいことは行われなかった。

 そして最後に我々の同級生達がライブ演奏をして卒業式となった。だから蛍の光、仰げば尊し、もちろん君が代もなく、今の高校のしゃらくせえメロディー(ゆずとかユーミンとか、校長先生の趣味なんだろう)でもなかった。演奏されていたのはローリングストーンズだ。こまっちゃくれたセンチメンタリズムなんかおさらばだという精神だ。だから卒業式の記憶にある音楽はサティスファクションだった。だからNO!といえる根性が身についた。

 さて話題は変わるが昨日は、CanonのEOS Phrofessionalで撮影済み画像を修正したまではよかったが・・・。全くCanonはなんでサードパーティーのくせにMacの心臓部にRAW画像を大量にストックするんだい。おかげてMac ProはHD容量限界になってしまうではないか。めんどくさいCanonの馬鹿ソフトだ!!。

 だからピクチャーの項目全部消去・・・うん!?・・・・・、EOSの画像を消すつもりが、その思い切りのよさで2017年7月14日以降のストックした画像を全て消してしまった。タイムマシンの設定はなおざりにしていた。もうあーあっ!!・・という気分だが。しかし、よく考えるとMac ProのHDが軽くなったことはよいことだし、それに過去画像は不出来だから全部NO!!、それは未練がなくてよい、また撮ればいいじゃないか。だから不思議なことにサバサバした感じで気分一新みたいで結構精神的に楽になった。どうせデジカメで撮影した画像だし、それを全て捨てる爽快感があると思うな。

 

1969年神奈川県小田原市江浦

Canon6L,50mm/F1.4,ネオパンSS

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番外編317. 鉄ちゃんに誘われて

2018年03月10日 | field work

 昨日は遅い朝食をつついていたら、突然緊急警報。地震はなかったし、京都だから火山もないし、津波は来ないし、そのほかどんな自然災害が起きたのだろうか。巨大隕石がやってきて地球の終わりか、それならもう警報なんかいらない。結局避難訓練だったのだが、なんでこんなときにやるんだよ、防災の日があるだろう。人を驚かせること、税金をとること、そしてサービスの悪い自治体である。

 ふと1990年代のフィルムネガがない事に気がつき書架を眺めていたら3冊あった。やはりとっておいたか。枚数にして5,000枚はあろうか。ラベルを見ると、筑波、六本木、横浜、名古屋の文字が目につく。またまたデジタル・デュープを始めなければならないのか。それも今度は雑用の合間にだ。まったくやれやれなことをみつけちゃった。

 さて昔の話に戻るが、鉄ちゃんに誘われているうちに露出計を用いたマニュアルの撮影機材の使い方を覚えたし、外の世界に関心を持つようになった。つまり出歩くことの意味や面白さを知ったわけだし、鉄道の背後にある建築やランドスケープへの関心の素地となっていった。そこから時刻表を用いて旅の仕方も身についてきたのだろう。

 さて八高線には重連がはしっているという情報を聞きつけ、鉄ちゃんに連れられて早朝から埼玉方面へでかけた。そんなわけで画像は狭山丘陵を走るD51の重連。重連とはいえ1台は回送だから煙など吐いていない。そもそも狭山丘陵は平坦地なのだ。北海道のC62の重連に調べれば大分見劣りするが、まあ一応重連を撮影したので金のない高校生は満足するほかない。

 SLは動力となる動輪の数でA,B,C,Dとタイプ分けされる。戦後の日本ではA,Bはさすがになく、CかDタイプが大半で、Cは動輪の直径が大きく早く走れるので客車用、Dは動輪が小さく4組ありパワーがあるので貨物用と分類されている。

 プロダクト的な見方をすると個人的には、ボイラーが大きく動輪が4組あるDタイプの機関車がいかにもSLらしく好感をもっている。画像は、1936年(昭和11年)から製造されているD51(デコイチ)だ。当時としては先進的だった電気溶接を用いたなど優れた設計だったために運用しやすく1,000台以上量産され軍需物資の輸送にあたったとWEBには記載されている。つまり名機だ。ニコンFみたいなものか。

 うん!、それにしても第二次世界大戦下で敵国の英文文字使用を規制したのに、機関車にアルファベットをつかっていたのかい?。和製なら、い、ろ、は、に、だろう。だからD51ではなく「に51」とか「は62」とか、いX・・とか。それじゃ帝国海軍の潜水艦みたいだ。

 そんなわけでC57などのちゃちなSLしかみてなかった者にとってD51は大きくて迫力があった。しかし貧乏高校生だから相変わらず撮影機材が一眼レフではないレンジファインダーのCanon6Lに標準レンズという寂しさだ。

 多分その頃からワンダーフォーゲル同好会で東京近郊の山歩きに没頭していたから、撮影機材にも関心が薄れていった。唯一記憶カメラだけが頭の中で働いていたわけだ。今でも夜中に登り、朝日さす山小屋のテラス風ベンチでお弁当をたべ、河口湖を見ながら下山してきた三つ峠のイメージ画像が記憶に残っている。

 

1968年八高線

Canon6L、50mm/F1.4,ネオパンSS

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番外編316. 寂しい空間

2018年03月09日 | Tokyo city

 両国駅の回りには通例よくある駅前商店街もなく、さらに商圏が明確でないので昔から商業が発達しない寂しいところだ。それに駅の頭端部分は、私だって夕方の列車が発車するときにしか行かなかったぐらいだから平日は閑散としていた。すでに役目を終えつつある駅だった。

 さて目の端に寂しそうな建築が遠目に見えた。機関車が留置されている先の遠くに見える塔は、伊東忠太が設計した東京都慰霊堂である。それは関東大震災で、この場所、つまり当時の陸軍被服廠跡に避難してきた人達が、押し寄せる火災に取り込まれ、所帯道具に火が回りやがて熱風竜巻が起こり3万8千人が焼死するという惨劇の土地である。その後第二次世界大戦の東京大空襲で亡くなられた10万人と合葬された慰霊堂だから暗い歴史の象徴だ。伊東忠太のただならぬ空気を通わせるデザインが目の端でいつも気になっていた。

 今この留置線は、東京駅へ向かう総武線快速電車の線路になってしまったし、線路際には両国国技館や江戸東京博物館、それに高層ビルが建ち並んでいるので慰霊堂はみえないだろう。

 それに両国駅の頭端部分は鉄道としての役目を既に終えているので、いまは駅舎も商業ビルに模様替えされている。Googleでは中央に土俵なんかをしつらえてこまごまとしたテナントが営業をしているようだし、しかも駅のホームが餃子ステーションだって。そうした安普請の店舗群を見ていると、別に駅でなくても展開できる業態ばかりであり、どこかさらに寂しさが漂い悲しい気分になる。中途半端なディスプレイ的改装が、この土地の寂しさをむしろ引き出してしまったようだ。

 いっそ建築的方法で外壁だけを残して、トップライトとか樹木がある中庭などを大々的に取り入れ大きなレストランやカフェテラス程度にして空間自体を変えてくれたほうが良かったし、ホームは列車を用いたビジネスホテルぐらいにして過去を抹消してくれた方が望ましかった。古い建築意匠を下手に残そうとしたり、相撲とか江戸という通俗的なイメージにこだわったり、ディスプレイ的方法に大きく依存したり、といった素人くさいマーチャンダイジングが、どこかとてもわびしく珍奇な空間にしてしまった。

 私なら、こんな珍奇な空間にしなかったと思うけど、多分仮設なんだろう。いずれは駅舎毎壊して賃貸用の業務ビルにでもしたいのだろうと思われる。隣駅の錦糸町駅界隈と比べると両国というのは商いに向かない街なんだ。

 だから国技館や江戸東京博物館から帰る人たちに尋ねてみるがよい。「これからどちらへ行きますか?」と。答えが両国駅周辺というのは少ないだろう。

 

1968年両国駅

Canon6L,50mm/F1.4,ネオパンSS

 

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番外編315. 鉄にまつわる思い出

2018年03月08日 | Tokyo city

 この頃当時の国鉄は動力の近代化を政策に掲げていた。だから蒸気機関車(SL)を廃止し、電化をしたりディーゼル機関車に置き換えたりしていた。実際まもなくこの両国駅からもSLは廃止され首都圏でSLを見ることはなくなっていった。この当時SLが数多く走っていたのが北海道だった。だから鉄ちゃん達は北をめざしたのである。

 あるとき鉄ちゃんが北海道へ行き、曇天の雪の中のSLC62を2台つなげた急行ニセコの写真をみせてくれた。

「おや、デフレクターにつばめのマークがあるじゃないか」。

「暗くてうまく撮れないんだよ」。

北海道まで行くのだから、学校なんか休んで天気の回復を待てばよいのになぁー、それにしてもうらやましい奴だ。こちらは、両国駅よ!、それもC57ばっか。だから今山口線を走っている貴婦人と呼ばれるC57が牽引する観光列車が、うちは嫌いなのよ。

 でっ、わては、機材もないしお金もない中校生だったから、北海道までゆくのはあきらめるほかなかった。何しろ北海道の寒さで機材が動かないこともあるだろうから、もらい物の機材1つでは遠出する意欲がわかなかった。実際この機材は、当時随分使用したし、レンズも見られる程度には写ってくれて使用頻度も高かった(1台しかないので当たりまえか)のだが、それにしても標準レンズ1本だから、ここは望遠で撮りたいと思ってもできないので、いつも標準レンズ1本でどう撮影しようかと思案しつつだったな。いま機材フェチの傾向があるのは、その当時の我慢の日々の裏返しなのかもしれない。

 それが中学3年の頃の鉄にまつわる思い出である。

 

1969年両国駅

Canon6L,50mm/F1.4,ネオパンSS

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番外編314. 鉄道というモノ

2018年03月07日 | Tokyo city

 画像は、両国駅を発車し銚子行き列車。黒煙をあげてゆっくりホームを離れるあたりは、客船が岸壁を離れるのにも似ていて、そのゆったり感が旅だなぁーという気分にさせてくれる。そう旅というのは、こうでなきゃという思い入れがあるからだろう。といって行き先は隣の千葉県のなだけど。近いけどそのわりには旅の空気が漂っていた両国駅であった。当時は、鉄ちゃんに誘われつつ実は旅に出たかったのだろう。

 かっての客車は、走行中でもドアが開いた。発車間際ではなく発車してから飛び乗ってくる叔父さんもいたし、手動で開けられ走行中に身体を乗り出し外の空気を吸うのが結構心地よかった。もちろん転落する輩もおり、箏曲家の宮城道雄がトイレと間違えて転落し死亡したいう話もあった。彼は全盲だった。

 そんな経験をしていると、今はドアに挟まれたぐらいで大げさな新聞記事になるから、まあ社会をあげて過保護なのだろう。バングラディッシュの列車のように屋根の上に鈴なりに人々が乗っている光景を思えば、鉄道というのもは運ぶだけであり乗っている乗客のことなんかしらんよ、という世界。鉄道企業が安全性や快適性を口にするとき、それはおべんちゃらといってよい。実際には危険な代物なのだということを鉄ちゃんから学んだ。

 もう一つ鉄ちゃんから学んだことがあった。それは車両限界という空間の制約だ。つまり列車が通過できる空間が設定されており、その中には列車の進行で障害となるいかなるものもいれてはいけないというルールだ。それも車体の寸法+αぐらいの僅かな寸法だから、窓から身を乗り出すと車両限界を超えて信号などにあたるというものであった。当時身を乗り出しすぎて首を落とした事故は、そこそこあったようだ。

 いまの通勤電車は、その車両限界目一杯に設計されているから窓から身を乗り出されてはかなわない、というので窓は開けられない構造になっている。それにはめ殺しの窓の方がコストが安いし制作が楽だという理屈もあるかもしれない。最も窓やドアが開かなくて100人以上の乗客が死亡した桜木町事件というのが昔あったけど。その教訓で今でもドアには非常時に開けられるドアコックがついているはずだけど・・・。あら、新幹線にはあるが通勤電車では最近みかけないな。ああっ!、また過去の教訓を生かし切れずに同じ事件をおこするんだろうか。そんなふうに鉄道というのは、なかなか危ないモノなのだ。通勤電車とて例外ではない。

 さて今日の京都も、朝の気温が6°、昼の気温が12°と暖かくなりつつある予報が出ている。ようやく底冷えのする冬が通り過ぎたようだ。ならばあれから始めるか。

 

1969年両国駅

canon6L,50mm/F1.4,ネオパンSS

 

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番外編313. 行商列車

2018年03月06日 | Tokyo city

 画像は1968年、蒸気機関車C57が郵便車も含め10両近い客車を牽引する両国始発の銚子行き普通列車。夏だから機関車が地獄のように暑いので涼をとる運転手。高度成長期にこんなクラシックな列車を利用する乗客も少なくなってきた。今では山口線の観光SLよりはるかに立派な列車なのだが、ここでは毎日のおきまりの風景だった。

 かっては、大きな農産物をかついだ農家の行商のお爺さんおばあさん達が朝の蒸気機関車が牽引する上り列車で東京へやってきて、そして街角で商い、都市の台所の一角を支えていた。その行商列車も夕方帰る頃の下り列車はすいていた。おそらくさっさと売り切って早々と国電で帰ったのかもしれないし、そうした行商自体がなくなりつつある頃だったのかもしれない。だから夕方の列車は空いていたし、それも総武線が東京駅まで乗り入れる頃にはなくなってしまった。

 千葉県は、今も農産物と海産物の豊かなところである。第二次世界大戦で東京が困窮しているときでも食料には困らなかった。こうした田畑でとれた米や野菜や海産物を大きな荷物をかついで東京へ商いにやってくるのである。端から見ていて、こんなおばあさんが担げるのかと思われるほどの大きな荷物であった。

 そんな行商の姿をみているとこの人達は本質的に豊なのだと思われる。どんなときでも自給自足できる空間と技術をもち海へ出れば豊かな漁場がある。それさえあれば、一生暮らしてゆける。他方で都会人には、そんな空間も技術もない。

 そんな行商の姿が東京から見られなくなって久しい。やはり農家の取れたての野菜にかなうモノはない。京都市内では、まだ近郊農家から軽トラックで農家の人たちが行商にくる。私の家でも週に一回そんな農家の叔父さんがやってくる。

 先日、矢口史靖監督「サバイバルファミリー」を見ていて、電気が突然なくなった。そこで4人家族は、自転車を駆使し、ついにはSLも登場して実家のある鹿児島の農家を目指したのである。そこには、お互いを支えて行こうとする伝統技術とコミュニティがあった、というストーリーだ。

 今の街の暮らしが崩壊すればサバイバルファミリーをするほかない。そんな都会人達の足下は脆弱である。しいていえば今は虚飾の豊かさだろうか。

 まあそんなことを思い出して、一朝有事のときは都会をはなれても数日程度は暮らせるように、リック一つに納まる山用品を吟味し揃えようかと考えたくなる。リック一つに納まることが重要である。お湯を沸かせられるコッヘルや、お湯を注いで食べられるアルファ米の数々、簡易テントに寝袋とマット、それに手動で充電できるラジオ付き懐中電灯に水だろうか。そんなのを担いで避難するなら沖縄かな、非常時にどうやって行くんだ・・・。

 いささか映画の刺激が強かった・・・。

 

1968年両国駅

Canon6L,50mm/F1.4,ネオパンSS

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番外編312.  頭端型の駅舎

2018年03月05日 | Tokyo city

 駅舎の建築空間には通過型と頭端型の2つのタイプがある。通過型は列車が通り抜けられる空間であり我が国の駅の99%はこのタイプである。頭端型は、列車が行き止まりになり線路もその先には続かない空間構造の駅である。代表例では、門司港駅、さらにヨーロッパのターミナル駅がこのタイプだし映画の舞台になるのもこのタイプが多い。東京都内では上野駅の下ホームがそうだし、小さいけれど両国駅の一部も頭端型の駅空間である。

 鉄ちゃんにつれられて徘徊しているうちに、この両国駅に眼が止まった。しかも自宅のある飯田橋駅から総武線1本でゆけるお手軽さも伴ってこの駅にしばしば通った。ここは千葉方面に行く一部の列車の始発駅であり、駅構内には列車や機関車の留置線や転車台などもあり、どこか鉄道くさい空間だったこともあった。

 近代建築の駅舎をくぐり待合室を横手に西日が射す改札口を抜けると長い通路を通りホームに上がる。そうしたアプローチが、これから旅に出るというわくわくとした気分にさせてくれる空間であり気に入っていたのかもしれない。朝と夕方の数えるほどの列車しか発着しない閑散としたホームであり、隣の国電ホームとは対照的だ。

 そうした駅舎空間を体験すると頭端型の駅から旅に出たいと、かなわない夢を持つ。京都だったら京阪や阪急の駅が頭端型の行き止まりだが、なんとも旅に出る空間ではないし、唯一JR嵯峨野線ホームがかろうじてそうなのだが、ここも現代建築の駅舎であり旅とは無縁だ。まあ待合室もあるので城崎温泉にでも旅に出ますか、という程度のことはできるが旅感覚は皆無だ。

 

1968年両国駅

Canon6L,50mm/F1.4,ネオパン

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Nikon Freak158. デジタル・デュープ続編

2018年03月04日 | Kyoto city

 この画像、年配者ならば京都のエトランゼと古くさいタイトルをつけたくなりそうだが、フイルムからのデュープ画像。そのデジタル・デュープの操作方法をメモしておく。試行錯誤の結果最適な方法を後日複写する際の自分のためにメモをした。

 RAWとjpgの画像で保存する。外付けHDを使用する。という条件でデジタル・デュープを行う。ストリップフィルムフォルダーがあれば一番良いが、ないときはプラスチック製スライドマウントで代用する。撮影システムは2月22日のブログで紹介したシステム。カメラ側の設定は、カラーネガの場合は色の劣化があるのでiFinishモードがベスト、モノクロネガの場合はモノクロ設定、手ぶれ補正などは解除。カメラとPCとの接続は、ビュワーを立ち上げれば尋ねてくるので、カメラ側とPC側を設定。カメラ側から見て数字が正しく読める方向にスライドをキャリアにいれる。

(オリンパスビュワー)

1)オリンパスビュワーでRAW画像で複写撮影する。そのときフィルムのベースの色があるサンプル画像を一緒に撮しておく。PC画面でも操作はできるが、機材側で行ったほうが能率的。

(adobe Lightroom)

2)LIghtroomで「写真とビデオを読み込む」をクリックし画像を取り込む。

3)サンプル画像で余白部をペンツールでクリックしてベースの色を無くしておく。

4)次いでカラーかモノクロの設定、自動補正、トーンカーブを逆勾配にする。

5)サンプル画像が反転されたので、全部の画像を選択し「設定を同期」クリックすると全部の画像がサンプル画像と同条件で同期される。これが一番手間がかからない。

6)画像の縦横は、この段階で修正しておく

7)全部の画像を選択して「書き出し」、そのときに書き出し先のファイル名を尋ねてくるので、ファイル名を付け、コピーしておく。

(外付けHD)

8)HDには日付でフォルダーが生成されRAW画像がストックされ、名称未設定フォルダーにjpg画像がある。そこでこのフォルダー名を先にコピーした名前でペーストしておく。ストックされた画像は自動的に連番が降られている。RAWフォルダーにもRAWと加筆しフォルダー名をコピーする。これでRAW画像とjpg画像のフォルダーができる。

※※※

WEBや印刷で使用するためにRAW画像は必要だろう。またjpg画像は必要なときにPhotoshopなどで補正する。

 

 手元に概算5〜6000カットのネガがあるだろうか。枚数の多い複写だから、1つの手間が5000倍になる。だから手間はできるだけ省きたい。複写もなれてくると最小の手間で行えるようになる。こんな方法でデジタル・デュープをしている。

 

京都市2000年

NikonF4,AFNikkor20-35mm/F2.8,トライX

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Nikon Freak157. ニコンアニバーサリー

2018年03月03日 | field work

 ニコンアニバーサリー100周年に合わせたわけではないけど、NikonFで撮影した画像のブログが続いている。研究のプロとしては、時間が経過してもきちんと画像が資料としてkeepされているのが必須の条件。さらにいえばこの機材で面白い画像が撮れた試しがない。それは研究機材という認識があるからだろう。

 街の空気をスナップしたいと思えば、私の経験ではLeitzやオリンパスの方がはるかに意図通りの空気感ある画像がとれる。多分小さいし目立たないからだろう。それにleitzのレンズは、空気を感じさせてくれる写り方をしてくれる。そう考えると、撮影機材はLeitz位の大きさがMaxではなかろうか。それより大きいというのは煩わしい。そんな理由もあって私はニコンDfなんか大学へ置きざりにしてきたけど。

 だから早く小さなフルサイズ・ミラーレスのNikonを出して欲しいわけ。オリンピック前に出すのでは、ニッコールレンズのシステムが違うのだから遅すぎる。横浜のCP+2018のイベントでは話題すらなかった。

 最近のニコンの一眼レフはデザインが悪いです。D3だかD4だかD5だのみんなデザインが一緒だし、やはりこちらは、なるほどと納得できるデザインが欲しい。でっ、CanonがどんなもんかとAPSサイズのミラーレスを出したのだけど、アチャー、デザインがやっつけ仕事。初代EOS Kissが登場したときは、なるほどこういうデザインもあったのかと納得もし、フォトグラファー達も大いに使用し世界的ヒット商品となったことを思い出すと、様子見のCanonはこけたですね。これじゃSONYを追い越せない。

 やはり裏面照射型COMOSは大変画像の抜けが良いし、オートフォーカスは位相差検出方式(同じ方式をオリンパスE-M1MK2が採用してますけど)、4K以上の動画は必須の条件だし、当然スマホとの無線LANを介してボディの操作ができ、そして品が良く小さいこと。当然レンズは、これまでのニッコールレンズシステムでは大きすぎるので新開発ですね。1億5千万本のニッコールレンズは、パナソニックやオリンパスがそうだったようにお終いです。結局はマイクロフォーサーズでは小さいレンズが主流になってきましたから。多くのニコンユーザーが泣くでしょうけど、アダプターさえ出しておけば、それでいいんではないですか。

 そんなふうにニコンアニバーサリーにかこつけて、こんなのが欲しいというイメージを膨らませていた。実をいうとNikonF3みたいなデザインの完成度がものすごく高く品のあるフルサイズ・ミラーレス一眼レフシステムが欲しいのだけど。F3はジョルジェット・ジュージアーロのデザインだったよね。そんなのいつ登場するんだろうか。

 

1983年長野県菅平

NikonF,NikkorHAuto28mm/F3.5,コダカラー

 

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Nikon Freak156. イメージカメラと記憶カメラ

2018年03月02日 | field work

 さて画像は、群馬県と長野県にまたがる四阿山(あずまやさん)。30万年前に最後の噴火をしたそうである。だから今は限りなく死火山だ。だがいまの時代だから死火山とはいいつつ、いつ噴火するとも限らないからアップさせておこう。

 画像で見えているのは外輪山の一部であり、Googleでみると外輪山の北半分、つまり群馬県嬬恋村あたりではなくなっている。おそらく噴火で飛ばされたか山体が崩壊したのだろうか。画像で二つ峰が見え、まんなかは噴火で吹き飛ばされたと思われる。さらに右側奥にも見え隠れしている頂がある。本来はこれらの頂きがグルッと連なる外輪山の大きな壁のカルデラ火山のはずであった。それを想像すると30万年前は、なかなか見事な風景だったと思われる。今は見えないが想像して組み立てると見えるからイメージカメラだ。

 さらに菅平高原からは浅間山もみることができる。みるだけであり温泉が沸いたという話はここでは聞かない。

 さてネガのデジタルデュープ作業も2/3位終わった。書架を整理しようという目的で始めたが、意味があるとも思えない作業を地道にしているなんて我ながらあきれる。おととし大学に置いといたロッカー1台分のスライドをデュープしたときは3週間ぐらいかかった。

 写真のデジタル化は概ね21世紀にはいってからだから、それまでの写真をみんなどうしているんだろう。ネガは捨ててプリントアルバムだけ押し入れに入れて大量にストックしてあるとか、あるいは全部捨てちゃったとか。おそらく小さい頃の写真は、ネガだったという人の方がまだ多いと思われる。今の高校生以下だとおそらくすべてがデジタルだから、ネガで幼少の頃が記録されているのはおそらく今の社会人あたりだろう。みんなどんな画像の保管方法をとっているのだろうか。

 そういう写真の中には小学校の頃、運動会でお父さんが一眼レフに長いレンズをつけて観客席の一番前に陣取って走ってくる君たちを撮ったかもしれない。そういうネガだよな。私の頃は、そんな機材がなかったし、第一自分の子供を撮ろうなんていう親はまずいなかった。だが不思議なことに記憶の中に断片的な映像が残っている。記憶カメラというやつかな。人に見せられないのが残念だけど、本来人に見せるほどのモノでもないか。

 まあ世の中には、イメージカメラと記憶カメラというのが昔からあるということだ。

 

1983年長野県菅平

NikonF,NikkorHAuto28mm/F3.5,コダカラー

 

 

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