Creator's Blog,record of the Designer's thinking

毎月、おおよそドローイング&小説(上旬)、フィールド映像(中旬)、エッセイ(下旬)の3部構成で描き、撮り、書いてます。

番外編314. 鉄道というモノ

2018年03月07日 | Tokyo city

 画像は、両国駅を発車し銚子行き列車。黒煙をあげてゆっくりホームを離れるあたりは、客船が岸壁を離れるのにも似ていて、そのゆったり感が旅だなぁーという気分にさせてくれる。そう旅というのは、こうでなきゃという思い入れがあるからだろう。といって行き先は隣の千葉県のなだけど。近いけどそのわりには旅の空気が漂っていた両国駅であった。当時は、鉄ちゃんに誘われつつ実は旅に出たかったのだろう。

 かっての客車は、走行中でもドアが開いた。発車間際ではなく発車してから飛び乗ってくる叔父さんもいたし、手動で開けられ走行中に身体を乗り出し外の空気を吸うのが結構心地よかった。もちろん転落する輩もおり、箏曲家の宮城道雄がトイレと間違えて転落し死亡したいう話もあった。彼は全盲だった。

 そんな経験をしていると、今はドアに挟まれたぐらいで大げさな新聞記事になるから、まあ社会をあげて過保護なのだろう。バングラディッシュの列車のように屋根の上に鈴なりに人々が乗っている光景を思えば、鉄道というのもは運ぶだけであり乗っている乗客のことなんかしらんよ、という世界。鉄道企業が安全性や快適性を口にするとき、それはおべんちゃらといってよい。実際には危険な代物なのだということを鉄ちゃんから学んだ。

 もう一つ鉄ちゃんから学んだことがあった。それは車両限界という空間の制約だ。つまり列車が通過できる空間が設定されており、その中には列車の進行で障害となるいかなるものもいれてはいけないというルールだ。それも車体の寸法+αぐらいの僅かな寸法だから、窓から身を乗り出すと車両限界を超えて信号などにあたるというものであった。当時身を乗り出しすぎて首を落とした事故は、そこそこあったようだ。

 いまの通勤電車は、その車両限界目一杯に設計されているから窓から身を乗り出されてはかなわない、というので窓は開けられない構造になっている。それにはめ殺しの窓の方がコストが安いし制作が楽だという理屈もあるかもしれない。最も窓やドアが開かなくて100人以上の乗客が死亡した桜木町事件というのが昔あったけど。その教訓で今でもドアには非常時に開けられるドアコックがついているはずだけど・・・。あら、新幹線にはあるが通勤電車では最近みかけないな。ああっ!、また過去の教訓を生かし切れずに同じ事件をおこするんだろうか。そんなふうに鉄道というのは、なかなか危ないモノなのだ。通勤電車とて例外ではない。

 さて今日の京都も、朝の気温が6°、昼の気温が12°と暖かくなりつつある予報が出ている。ようやく底冷えのする冬が通り過ぎたようだ。ならばあれから始めるか。

 

1969年両国駅

canon6L,50mm/F1.4,ネオパンSS

 

コメント
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