今日のブログは2月8日に映像をつくりYouTubeでアップさせブログ化していた。二ヶ月の時間差がある。ブログはWebとlogをつないだ造語だが、日記、記録という意味がありそうだ。このブログも記録に軸足が移ってしまった。もちろんYoutubeとリンクさせることはできるが、既に二ヶ月以上の時間差だ。だからブログタイトルの副題を変更した。
さて、その冬の日の記録は・・・
この日は、すこし天気が良いので夕方の散歩に出かけた。
石川啄木の「・・・人混みの中にそを聞きにゆく」と口ずさみながら。ところで「そ」とはなんだろうか。多分「それを、そこの人、あるいは訛り」という意味なのだろう。なぜ彼は「それを」と書かなかったのだろうか。啄木ほど解説や解釈を述べる人が多く、故郷の懐かしさと冷酷さを歌ったと講釈されるが、故郷がないに等しい私にはどうでもよく、感覚的に「そ」という発音にひかれた。
私は、一日中Macの前で仕事をし食事までしているぐらいだから、やはり人混みに「そ」を聴きにゆきたくなるのだ。多分街の雑踏の中で人の声を聞きたいと感覚がそう言っているのだろう。
産寧坂まで来たら椿が見える。
「椿咲くことのいたずらや冬構/久保田万太郎」
なら椿を映像のタイトルにしようかと考えたが、寒椿など当たり前すぎて私の感性が動かない。結局季語を探して「余寒」という言葉をタイトルに使うことにした。節分が終わり4日の立春は、暦通り春の光をすこし感じさせてくれたけど、まだ寒い事に変わりはない。だからタイトルは与謝野蕪村を引用しよう。
「関守の火鉢小さき余寒かな/蕪村」
何でこんなことにこだわっているかというと、映像編集をする際に最初にタイトルを決めておくと後が楽なんだね。次に音楽を決めると上映時間が決まってくるし、音楽に合わせて映像を貼り付ければ簡単だ。それから画像をチョイスして貼り付けて映像にしてゆくわけだ。
今考えるとタイトルには「そを聞きにゆく」の方が素直だったと思ったが、一端アップさせてしまうと直す気分にはならなず、一件落着。それが私の映像編集作法だ。
京都・余寒かな 4K
SONYα6600、E10-18mm/F4OSS