世の中の見える世界から見えない世界まで思いっきり。特に、子供、教育、不登校、自閉症等 情緒に関心あり
天まで届け
囲碁の面白さ
囲碁はそんなに強くはないけど、親の死に目に会えないぐらい、友達との飲み会をウソついてサボるぐらい好きだ。
勝つのもいいけど、おもしろさはどうもそこでないようだ。
「囲碁」と言うぐらいだから、白と黒はお互いに囲い合っている。その囲い方が、お互いの1手1手で形が変わる。だから、一手は線の始めのポイントや、囲みの線を意識しながらどこに引き足すかの選択で.,碁盤に自他の石をみながら新しい自分の一線を描いているようなものだ。
どこに線を引くかは、好みだけど、碁盤を広く見ていないといいところに、いい線が引けない。
強いヒトは盤面を広く見てよりいい場所にいい線を書く。だから囲碁はそれぞれ相手より気持ちのいい囲み方を考えている。より囲み方がいい方が結果とし勝つことになる。(実際は技術もあるからそうとばかりも言えないが。)
だから囲碁は共同でする(お絵かき)ともいえる。盤面のどこにどんなイメージをもって線を描くかは、碁盤は画用紙のような物で端から端まで見ていないと、線がどこにどうひき、どんな形の囲みを考えているか自分自身が気づかない。
盤面を大きくみて書いているつもりでも、いつの間にか部分的な狭いところに押し込められ、もがいている事が多い。
経済や社会を考えるときも、部分的に拘り、全体的な間違をしてしまう事はよくある。
事故を起こした運転手が、トラックの陰のバイクに気が付かなかったと言っても、それは目の前の目に見えるものだけの自分勝手な見込み(思い込み)運転で、影に物がないとは言えない。可能性の予知、予見を欠いた油断した運転と言う事になる。
社会の問題も視野を広げないと、全体の中での意味が分らない。ところが、習性のように。囲碁ではすぐさま目が局地に拘り、全局的な意味の手を打てなくくなりやすい。
午前中ブログ、午後の囲碁も注意して全体の中で見るので頭の使い方が似ていると、最近思うようになった。
碁盤は宇宙にも例えられ、盤の端から端まで見ないと今書いた線の意味が分らない。社会の色々な出来事も同じで、今は最低地球まで見渡さないと、一つ一つの社会現象の意味を間違える。
ミュージカルも、子供との付き合い、お寺で座るのも、おなじかなあ。
このことに気がつき、自分のやってる事が繋がっている気がするのか、落ち着くものだ。