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天まで届け
消費増税の愚とマスコミの欺瞞性
朝日の元旦の社説は 《ポスト成長の年明け》『すべての将来世代のために』と題して「増税や政府支出のカットはつらい。成長率の押し下げ要因になるが甘受しなくてはいけない。」さらに「成長から成熟へ、社会を切りかえることでもある。成長の時代を享受してきた私たちは、変化していく歴史の行くへを長い目で見つめながら、今やるべきことを着実に実行していかねばならない。」と結ぶ。この論調は目にするすべてのマスコミ(新聞テレビ)に共通しており、1連のプロパガンダの新年のあいさつの感がある。
一見、その通りだが、これまでの経過と現状を見ると、これが如何に欺瞞に満ちた物かが分かる。
2点取り上げたい。
①(消費増税)があたかも、将来世代のツケを和らげる策であるかのように述べているが、これは経過から言っても経済の理に合わない。
勿論(景気後退とか、弱い者いじめ、中にはデフレ対策を優先)を主張する野党や論者の説に組するものではない。
もともと、国の借金は景気対策の金融緩和と財政支出が積み上がったものだ。バブル自身が病的な産業構造の結果であるにもかかわらず、それが弾けたとして産業構造をそのままにして前記の景気対策を繰り返してきた。その手法も限界になり使えなくなり、今度は、国民から税金としてお金を集め景気対策に回すの自明。増税する前から公共事業への投資が復活したのは自然な帰結。
産業構造に手を付けないのだから、いくら税金を集めてもきりがない。一部に消費増税20~30パーセントの説が聞こえるが当然だし、さらに国債発行してインフレへ誘導した方が良いとの声もあるがインフレにしたところで産業構造が良くなるわけではないから抜き差しならない状況に陥ることは当然。
国家の経済破綻は産業構造そのものを壊し、新しい産業構造が生まれるのは必然だが、果たしてマスコミはそこへ財界の中枢を誘導しようと言うのだろうか。
これでは、スポンサーである財界の意向にさえ沿えない。国家の経済的破綻へつながる消費増税を優先するのではなく遅ればせながらであっても産業の構造に着手すべく、論じるべきではなかったか。
②「…成長の時代を享受してきた私たち…」とあるが、本当に我々はそれを望み、成熟した社会を享受してきたと言えるだろうか?
家族や地域共同体を壊し、自殺者を大量に出し、無縁社会をだれが望んだか?
紛れもなく、財界の意向を受けた政治を長年やって来た結果ではなかったか。そこに至ったマスコミの果たした役割を棚に上げ、さも国民が望み選択したかのように言う、マスコミは己の欺瞞さえ感じさせないぐらい感覚がマヒしたのかか。
元旦の紙面では「社会的カオス」を問題にし「民主主義」の限界を大きく取り上げていたが、今さらの観がなくもない。
マスコミは財界首脳と顔を並べ財界もはっきり政策を要請し主張し、マスコミは「財界の意向に沿って…」と言えば分かり易く事足りる。 財界の意向が変ればそれに沿いメディアも社論を変えれば良いだけ。政治は脇役で良い。
同じお金に支配されるとしても、その方が政治は分かりやすく財界にも責任が生じ、マスコミも小賢しいことをせずにいられるはずだ。
脇役の政治を主役に芝居をするから話が混乱する。
想像の垣根
人は、想像して動く存在だと思う。
制約されることなく広く深くと自由に想像し、それが少しでもだれかと共有できれば、この上ない。
どの子も、そう願ってるに違いない。
想像に垣根は要らない。
想像の垣根は自分が作らない限り、他人には作れない。
新年に当たり
新年に当たり
世界の国々の行き来は増え情報の共有や広がりは急速に進んでいるから、世界の一元化とそれに伴う本来的な多様化は 見た目とは別に根底的に確実に進んでいると思う。
善・悪が背景によって異なるように、公私の間違いも試行錯誤にとっては大事な経験であり欠かせないが、 今年はお金や経験の無駄使いを減らしたいものだと 自分にも他人にも日本や世界にも願っている。
小さな科学者
主権が戦前の天皇から戦後は国民へと移ったように、歴史観も変化した。
ただ、人間の歴史は地球あってのことだから、地球の自然を視座にして人間活動の歩みを描けないものか。
同じように考えると、歴史だけでなく、自然科学・社会科学や文化芸術など 他の領域や分野でも、その発想があっていい。
専門的な科学を(小さな科学)とすれば片方に(大きな科学)を併せ持つことが、社会に役立つ科学者には求められているのではないか。
(小さな専門家)は人の数ほどおり、その使い方によっては、(現在見られるように)全体のバランスを崩し壊してしまう。