学級担任なら

学級担任の仕事は先ずは 「学級をまとめること」と教わったし、その通りだと思う。

学級をまとめて一緒に勉強したりいろんなことをするのだが、それは(最大公約数を見つける)ような感覚だった。

学級には色んな子がいるがそれがまとまって何かをするには共通した周波数のようなものを見出してそれを具体化しないと教室はたちまち不協和音を発し落ち着きを欠き勉強もはかどらず場合によってはクラスが人間関係までバラバラになってしまう。

そんな仕事を4~50年やってくると(勿論、例えるのもおかしいが)国や世界を治める政治の指導者のやってることが解からない。

政治が闘争であるかのようにそれを主導して国や世界がまとまる筈はなく目的(言ってること)が果たせるはずがない。

もう1つ思うのは、学級の子供たちの個性は皆別々で、一人一人要求しているものが違っているから、担任はそれらをまとめて1本化して計画を立て対処する。それが感覚的には最大公約数を求めるに似ているのだが、政治で言うと【政策化】ではないか。

国や世界にはいろんな立場や人がいるわけだからそれらの要求をまとめて政策化して政治に移すことだと思うが、内外の政治や政治集団を見ていると、特定の立場からの要求を全体的に位置づけ政策化することなく、ほとんど生のまま包みだけ変えて政策として政治に移すのを(政治)だと考えている節がある。

それは特定の政党に限らずほとんどすべてに見られる。

結局は力の強い立場の要求が直接政治を動かす。それは選挙を道具にした(民主主義)の名で実行される。

民主主義や選挙が支配の看板や道具、いわば言い訳にされてるのが現状ではないか。

これは、民主主義や選挙が悪いのではなく為に利用されているだけであって、本来の民主主義の理念を取り戻さなければならないし。もし(民主主義)そのものに限界があるなら、さらに発展させた理念を生みだし、それを実現できる方策や仕組みを考え出さなければならない。それは時代的な要請だとは思うが、取りあえず 政党の役割を本来的な意味で(政策を生み出す集団・生み出せる集団)として改編すべきではないか。

場面は違うが、学級担任の感覚ならこうなる。

 

 

 

 

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