世の中の見える世界から見えない世界まで思いっきり。特に、子供、教育、不登校、自閉症等 情緒に関心あり
天まで届け
脳天気の差異
オバマ氏はイラク撤兵で「良くやった」と兵士の労をねぎらったが、さすが「勝利した」とは言わなかった。
「勝利した」と言っていたら、日本政府の(収束宣言)を上回る脳天気を世界にさらし、ホワイトハウスは時代遅れで笑えるマンガチックな歴史にまたもや1ページを加えるところだった。 ぎりぎりセーフ。
この差異の背景は?
新しい【企業の論理】
大雑把な言い方だが、「国は 企業のもたらす利潤によって成り立っている。」と言えなくもなく、
この【企業の論理】が世界を支配しているようにすら見える。
国民を養ってもらってるからか、政党やマスコミは企業団体の繰出す要請にどう答えるかが、基本的な立場となり、逆らえば立場や生活そのものが危うくなる。
ただ、企業の論理で行き詰まっている現在の世界は、【新たな企業の論理】を求めてはいないか。
ヨーロッパに僅かに見える金融規制の動きは、これまでとは方向性の異なる新しい動きと言って良いが、地球の自然を視野に入れた地球経済を立て直す動きらしい動きは、ほとんど見当たらない。 企業の在り方が政治や経済ですら議論の対象にならないのが現状。
(朝日新聞社が10月に行った「地球フォーラム」が、これらの動きとしては最大かもしれない。)
「見栄をきった どじょう」
首相の「福島原発事故の『収束』宣言」
これほどまでに政治の嘘を真顔で(あけすけ)に語る人は いないだろう。
かばいきれなかったのか、さすがのマスコミも (どじょう)に注文をつけ身をかわ した。
支配構造の崩れの漫画チックな一面だったが、分かり易くて良い。
崩れと胎動の役割?
支配体制すら崩して暴走してるのを見ると「とんでもない災害を蒙らない限り」、と悲観的になることもあるが、そればかりでもなさそうだ。
日本の権力を支えた農村は荒廃し、街中はあちこちシャッターが下される。TPP参加問題に見られる 支配構造の崩れは 覆うべくもない。
地球経済にとって無視できないCOP17やEUの金融危機に対し、従来世界的なリーダーであった覇権国家・超大国アメリカは昔日の観である。
一方、世界市場のアジアへの移動やウォール街の「私たちは99%」のデモをはじめ根源を問うような 芽吹きなどの変化も見られる。
歴史の転換には「崩れと胎動」の2つが必要なのかもしれないが、今は前者が主役を演じて いるようだ。
ケチな喧嘩
これまで
資本主義と社会主義、民主主義と独裁、左翼と右翼等々あたかも国の内外の座標軸か対立軸であるかのように言われ分類されてきたが、果たして現実にマッチしているだろうか?
棲家である地上の安全を顧みることなく、目先のお金を求めて競い争う人間社会(家の壁や屋根をはがして競って燃料にしたり、売り払ってるに等しい)を巡ってどこで争い、対立していると言うのだろう。
現在の米国と中国、COP17に見られる先 進国と後進国、いずれの国も基本的には人間活動に違いはない。
それは国の内外で国益や分配や負担で対立しても、人間活動の土台を成す産業やその構造を巡って争い、対立しているのを見たことがないからである。
ケチな内輪喧嘩ではなく、家や身を守るため本格的な対立や争いは誰しもが期待し当然求めるものだ。
おーい たっしゃかー
おーい たっしゃ(WEL) かー
たっしゃでなかったら 手を上げて 空や 雲を見てみたら
夜だったら月でも星でも ゆうっくりと
風を感じると なおいいよ
ほーら 近くの物音や足音 遠くの 車の音もきこえるでしょ
あれを運転している人は 今、どんな物語の中で何を思ってるんだろう?
手足があったまるといいね
つくづく思う
南アフリカで開かれたCOP17の終わり方を見て、世界は ギブアップせざるを得ないほど大きな被害を蒙らないと、新しい時代に向かわないのか? とつくづく思った。これでは科学も理性もあったもんでない。
「地球は美しい」と、手放しで喜べないところに ドラマや歴史があるのかもしれないが、面白がってばかりもいられない。
これが、欲張りじいさんや欲張りばあさんの出てくる昔話だったら、子供たちは手をたいて笑ってくれるのだが…トン ピン シャン
追加
朝日の夕刊を見ると、総理も新聞社も概ね『よくやった』と評価していたが、細野大臣は
京都の議長国のプライドや世界の期待を一顧だにせず、財界の意向を代弁するような主張を通してきた。それを首相やメディアが評価するのは 支配関係の為せるわざ。
その日暮らし
何時のころからか、布団に入る度、明日の朝まで生きてるかなーと思うようになった。
朝、目を覚まして「あーまだ生きていた」と思ってから、その時一番考えたいことを考えるのが、習慣化したようだ。
正にその日暮らしなのだが、仮に不老長寿の薬を飲んで、その薬が効いて底知れず命が絶えなかったらどうだろう?
幕の閉まらない芝居のようで、主人公は居場所がなく路頭に迷うこと、この上ない。
自ら 極刑の死刑欲する人もいると言うが、終わりのない人生を課せられたら死刑どころでないこの世の地獄が永遠に終わらない。
永 六輔さんの著書にそんなのがあった気がしていると、妻も民話でそんな話を読んだと言う。
娘に、覚悟はできているか?と言うと、少し困った顔をして二階へ上がって行った。
一日一日が凝縮し、毎日が人生の連続で、だから、思いっきいり人生がやれ、それでいてご褒美の(千の風)にはチャンとなれる、と言う最高の生き方が、娘はまーだ分かっていないワイ…ブツブツ。
今こそ、歴史に学ぶ
地球の異常な現象をもたらしているのは 世界マネーによる支配の仕組みに因るのだろう。
行き過ぎた今日の資本主義を (金融資本主義)とも言われるが、その頭に「独占」を付け加えた方がよりマッチしていないか。
それは、自由であるべき市場経済が金融市場によってコントロールされているからである。
国家経済の多くは 企業の生業によって賄われているが、大企業と言えども金融機関や投機筋の動きに従わざるを得ない。
主権を持つとされる国家も国民もその仕組みの中にある。
こう考えると、全く絶望的なのだが、弱肉強食は恐竜が地上から姿を消したように、最終的には存在しえない。
現在、世界的に見られる国家や企業の破綻とも言える現象はその兆候ではないか。
( お金と競争)の意味を文明的に問い直すことが求められている時代なのだと思う。
ハゲタカが怖いからなのか、すっぽり仕組みに組み込まれているからなのか、支配の構造は話題にすらならない。
このことを棚上げした環境や政治・経済・文化の対策は問題の先送りで当面を糊塗しても根本的な解決にはならず矛盾を増幅する。
長年かけて築いてきた(お金と競争)の仕組みからの方向転換は とてつもなく大きな自然災害か経済破綻以外にないのだろうか?
確かに歴史的な転換は(破綻やリスク)を十分払ってなされてきたが、人類はそういう歴史から学んでも良いはずだ。
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