世の中の見える世界から見えない世界まで思いっきり。特に、子供、教育、不登校、自閉症等 情緒に関心あり
天まで届け
「アフリカの貧困のわけ」を考えると
「アフリカの貧困」のわけも解からないまま天職であるかのようにして教員をやり終わった。
この齢だから出来るだけ地球や人類を単位に物事を考えたいと努めてきたのだが、『アフリカの貧困』のわけをこれまで改めて考えたことは無かった。
始めから、(そう言うところ)と決めてかかっていた。せいぜいオリンピックをアフリカでやる時代が来ないかと希望する程度だった。
世界経済は地球全体が連動しており、弱肉強食が全体を覆っていることに気が付いた。 その範囲は世界的であり、近代から現代にかけて益々激しくなっているようだ。
知らない間に、自分が収奪する側にいたことが かなりショックだった。
その絵を背景に世界のニュースや日本の政局を見ると、とてもじゃないが選挙に行く気になれない。
政治権力を最大視するニュースは、国の内外に連動した支配の【巨大なシステム】から目を逸らし、世界や自国の現状や実態を見えなくしている。
しかし 今やっていることを転換しない限り 最終的には権力者もそれを道具のように利用している支配者は(所謂強者)自らをも収奪の対象にし 暫定的な 強者は存在しても持続は不可能。
何処も言葉と裏腹か?
アラブの春以来内戦状態にあるシリアの反体制派統一組織『シリア国民連合』をシリア人の正当な代表だと承認する一連の動きが胡散くさい。
例え国際世論が「民主主義」を標榜するなら尚の事。民族自決や内政不干渉の原則を無視した「援助?」の目的は別かと勘ぐってもおかしくない。
青天井の犠牲の増大
今の経済活動を持続させるには地球が4個半が必要であることが言われて久しい。昨年の11月には朝日新聞が3日間内外の政界や財界や学者の著名人を集め「持続可能な経済体制」と題して東京でフォーラムを開いた。日本からは元福田首相も参加していた。
アメリカの大統領選挙や世界のリーダーの交代、日本の新党を含めた総選挙に向けた動きには一切「持続可能な経済体制」を体した主張や政策が与野党を通して微塵も見当たらない。
非知性主義と揶揄されるような時代のせいだとは思うが、将来の犠牲をどこまで増大する気なのか。
各界各分野のどんな立場の人であれ、これこそ「放っておけない」「待ったなし」の声を上げてほしい。
反知性主義的文明
都心へデモにでも出かけようかと思っていたら、夕方雨が降だし寒々してきたので買い物に付き合うことにした。気のせいか町はひっそりしてるのに行き付けのそのスーパーはいつもより混んでいた。
ところで、アメリカの大統領選挙を通して保守的な反知性主義的な文化を思わせる現象が双方に見られた。(例えば、銃規制やアメリカンドリーム、経済対策より景気対策)
知性より金に価値観を置くこの現象はアメリカの保守層に限らず体制を越え世界的な傾向ではないか?
「改憲や集団安保」は日本の保守層の言い伝えのようなものだが、世界がグローバル化している現状の中で、それを杓子定規に解釈し現状に合った形に継承発展させなくて良いのだろうか。世界的な反知性的な傾向を思わずにはいられない。
これは世界の保守層だけなく、反体制やリベラル層も同様であって背景である現代の文明・文化の1面とも言えるが、時空を超えては、強欲や醜悪の誹りを免れない。
示しのつかない論評
胡錦濤氏の主張する経済の(科学的発展観)が実際にどれだけ用いられているかは分からないが、欧米先進国でもあまり目にしない。
国際競争下で環境や格差拡大に配慮した経済発展は人間中心の発展観であることには変わりないが、体制に関係なく実行は難しいのが現実だろう。
体制の違いからか一方的に揶揄し揚げ足取りをしているメディアはどんな発展観をもって論じているのか。、
政治家は勿論だが、 メディアであっても国家間であれ国内の関係であれ、他に礼節を求めるなら自らの礼節は守ってほしいものだ。そうしないと子供に示
しがつかないぐらいみっともない。
子供置き放しのオール スピード派
オバマ氏の再選は、より遅いペースの選択を意味していると感じた。
両候補の主張は行くづまりへのペースが問題であって向かう方向をチェンジするものではなかった。
これからの世界の4年間はスピードダウンしているとは言え、未曽有のラジカルなドラマが展開しそう。
日本は子供を置き放しにした:オール スピード派で、てんてこ舞いしそう。
放っておけない仕事
全ての生き物にとって最も大切な能力は予知・予見・予測の能力かもしれない。
誰もがその力を要求されるのだが、行き詰まった現状は我々の力不足の証左だろう。
それは個々人の問題とも言えるし、人間が社会的存在であることを考えると社会の仕組みに原因しているとも言える。
誰も乗った船から飛び出すわけには行かないし、だからと言って放っておけるものでもないから、せめて感覚を磨くことか。
学級担任なら
学級担任の仕事は先ずは 「学級をまとめること」と教わったし、その通りだと思う。
学級をまとめて一緒に勉強したりいろんなことをするのだが、それは(最大公約数を見つける)ような感覚だった。
学級には色んな子がいるがそれがまとまって何かをするには共通した周波数のようなものを見出してそれを具体化しないと教室はたちまち不協和音を発し落ち着きを欠き勉強もはかどらず場合によってはクラスが人間関係までバラバラになってしまう。
そんな仕事を4~50年やってくると(勿論、例えるのもおかしいが)国や世界を治める政治の指導者のやってることが解からない。
政治が闘争であるかのようにそれを主導して国や世界がまとまる筈はなく目的(言ってること)が果たせるはずがない。
もう1つ思うのは、学級の子供たちの個性は皆別々で、一人一人要求しているものが違っているから、担任はそれらをまとめて1本化して計画を立て対処する。それが感覚的には最大公約数を求めるに似ているのだが、政治で言うと【政策化】ではないか。
国や世界にはいろんな立場や人がいるわけだからそれらの要求をまとめて政策化して政治に移すことだと思うが、内外の政治や政治集団を見ていると、特定の立場からの要求を全体的に位置づけ政策化することなく、ほとんど生のまま包みだけ変えて政策として政治に移すのを(政治)だと考えている節がある。
それは特定の政党に限らずほとんどすべてに見られる。
結局は力の強い立場の要求が直接政治を動かす。それは選挙を道具にした(民主主義)の名で実行される。
民主主義や選挙が支配の看板や道具、いわば言い訳にされてるのが現状ではないか。
これは、民主主義や選挙が悪いのではなく為に利用されているだけであって、本来の民主主義の理念を取り戻さなければならないし。もし(民主主義)そのものに限界があるなら、さらに発展させた理念を生みだし、それを実現できる方策や仕組みを考え出さなければならない。それは時代的な要請だとは思うが、取りあえず 政党の役割を本来的な意味で(政策を生み出す集団・生み出せる集団)として改編すべきではないか。
場面は違うが、学級担任の感覚ならこうなる。
元々は、皆子供だった
子供は受け入れられるのに、特に権威や権力を持った大人が受け入れられない自分に、時々『どうして?』と思う。
子供であれ大人であれ自分であれ誰であれ、出来ることとできないことがある。
泳げない人と泳げる人は、互いに「どうして?」 と思う。
他人からはどう見られようと、自覚の如何を問わずひとりひとりは自分なりの論理を以て必然的な言動をしていると言える。
それが他から見て嘘や間違いであっても本人にとっては嘘や間違いとは言えないところが残る筈。
社会の大きな仕組みの中に組み込まれた個人は個人そのものを社会から切り離して取り出すことは出来ない。
石原氏をはじめリーダー的な人の言説にひっかかり、文句タラタラの自分をどう整理すればいいのか、正直困る時がある。元々は皆子供だった。
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