世の中の見える世界から見えない世界まで思いっきり。特に、子供、教育、不登校、自閉症等 情緒に関心あり
天まで届け
一方的に決めつけられる立場か?
子どもや孫たちに正義や法の名で地球を壊して残そうとする私たちが どうして「正当防衛・ジハード」だと主張する人たちを一方的に[悪だ、違法だ、テロ」だと決めつけ葬れるのだろうか? 具体的な情報が与えられないから確かなことは言えないが、少なくても検証しようとする態度は持っていたい。
判断の基準
朝刊の見出しの「NHKの報道 公平公正を疑う」「子供の貧困 遠い大学 放置なら格差固定」や、その後見た国会中継で野党議員が「これでは非正規労働者が増えるだけ」だと主張すると総理は「それは当たらない」と否定するのを見ながら、一体、新聞や政治家の議論は何を基準に論じているのか?と疑問を感じた。
社会的事象は基準(誰にとって・何を)を明らかにしないと 意味が無く、議論の歯車は噛み合わないものだ。
マスコミや論者はそれを無視して言い合っていないだろうか?
自分は 出来るだけ大自然と最弱者を基準にしたい 。
大きな芝居と小さな芝居
日本ほど露骨ではないが、「世界昔話 」も貨幣の印刷とカジノで切り盛りする筋は大して変わらない。
やくざが出てくる時代劇の賭場では用心棒が周囲に睨みをきかせるが、それは現代版の軍隊の役か。
金も無いのに見栄張って用心棒を沢山立てて見せるのは ご愛嬌。
そんな昔話の中で私たちは熊さんか少し格好つけた選挙権を持った(国民)の役を担っている。
今日は定例の芝居見物だが、 役者は芝居の中の芝居をどう演じるかそれを格好つけた熊さん(自分)がどう見るか 行って見なくちゃ分からない。
(小松座 井上 ひさし作「化粧」 は衰退する芝居小屋の女座長を演じた一人芝居。7-5調のセリフの妙味と俯瞰した演技が面白くて泣けちゃった。)
今は 「日本昔話」
円が下がり、株が上がったと喜んでいる日本は 日本の通貨の価値が下がっているのにカジノで儲けたと 国中で喜んでいるようなもの。
喜び弾けて「世界Ⅰのオリンピックで おもてなしを!」なんて声も聞こえる。
将来、子供たちは この話を 「日本昔話」で教訓的な寓話で 聞くことになるんだろうな…
思考の補助線
そんなこと知る由も無いが、世界の多くのリーダーが今気にしていることを2つだけ挙げるとすると、オリンピックでもなく地球環境でなく、ひょっとすると ①新興国の経済の動向 と ②シリアの内戦の行くへかも知れない。
こうして分かりもしないことであっても想像すると 不思議に世界や日本現状と自分の位置関係が浮かぶ。
目に見えないものをあぶりだす面白い方法だと思う。
想像した補助線が少々ズレていても、新聞やテレビによって自分が(かなり大袈裟な言い方だが)異次元のような空間にいることが分かる。
幾何の証明で使う補助線のようだ。
新しい仮説
『アベノミクスに かげり』 この見出しが、ここ数か月のうちに新聞で見られるだろう と朝方 にわかに浮かんだ。
(アベノミクスの結果とメディアの言い訳する立場の2つの意味をもった仮説)
グローバリズムとナショナリズムの壁
「グローバル化 ¡ 」と掛け声をかけるほど 人間は グローバルな考え方や行動は 出来ないでいる。
グローバル化は人間の目的意識的な行動で生み出したものではないから当然で、
共同体や国家意識とグローバル化は矛盾するものではなく 長い歴史的な伝統として引き継いできた意識と人間活動が生み出した新しい現象に伴う意識にズレが生じるのは仕方ない。
それにしても 日本に見られるズレや壁の厚さは 先進国と言われる中では少々目立ちコントロールできないでいるようだ。
食糧と経済
かつては「自分で飯を喰う」 この言葉が その人間の社会的・経済的自立を意味していた。
人間だけでなく全ての生物は食い物無しには生きて行けないから、経済活動の根本は食糧の確保 だろう。
地上にいる70億の人間は食糧だけでなく多くの物とサービスを得ており、貨幣に換算すると生み出しているものは 食糧以外の物が 圧倒的に多くを占めている。
しかし、地上では10億からの人が食糧に窮し、およそ半数は生活に窮しているから、全体としては糧(かて)が満ち足りているとは言えない。
現在の経済体制では所有の格差が食糧の過不足を分り難くし、有限な資源にあっては 生み出す物は減じ、食糧の比重が 増加するのは避けられない。
現在の経済構造にあっては (経済成長の不振)とか(行き詰まりの)レベルを越えて食糧不足へ向かう。
現在はその過程のどこに位置するかが問われているだけなのだが、 (忙しさのせいか)
今は無関心なようだ。
食糧が消費者物価指数から除外され、エンゲル係数がマスコミや教育現場から消えたかのように登場しなくても、何事も無いかのよう過ごしている毎日が心配。
いつの間にか自分はそこにいた
海外旅行をするとその国の人に自己紹介するように「日本はこんな国」だと端的に言わなければならない事があるが、答えるのは難しい。
スポーツなんかで(サムライ日本)(ナデシコジャパン)今度のオリンピックに向けては(オモテナシ)のキャッチコピーが用いられた。
現在の日本で上記の言葉の実態を探すのは難しい。
個人であれ組織であれ国家であれ独立と自立には精神的なアイデンティティー(社会的役割・自己同一)が求められるが、果たして現在の日本のアイデンティティーは何だろう?と考えたが なかなか思いつかない。
政府がここへきて敢えて日本の(積極的平和主義)を口にすると、逆にこれまでのアイデンティティーが疑問になる。
アイデンティティーは 掛け声では意味を為さない。
外形的な崩壊に留まらず目に見えない精神的なアイデンティティ―も失った国にのメンバーの中に、 いつの間にか自分はいた。
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