http://www.manderlay.jp/
『ドッグヴィル』でアメリカの醜悪なスモールタウン民主主義を焼き払ったグレースは、今度は解放後も黒人奴隷制度を続けるアラバマの農場『マンダレイ』に乗り込む。ギャング団の首領を父に持つ愚かしい理想主義者グレースは、黒人たちに民主主義と自立を教えようとするが、ことごとく裏切られていく。黒人を鞭打ち刑にしようとする白人奴隷主から鞭を取り上げたグレースなのに、半年後に農場を立ち去るときには狂ったように黒人に鞭を振るうのだ。鞭打たれているのは甘い民主主義幻想だけではない。小狡い現実主義も打たれている。
鞭をしならせているのは、強大な軍事力を背景にした若く美しい白人女だから、誰でもブッシュとグローバリズムを連想するだろうし、そこから反米という予定調和に落ち着くこともできる。が、その不快な痛さは後を引く。愉快な痛みなんてもちろんないが、痛みが去ればかえって爽快な気分すら味わうことは珍しくない。『ドッグヴィル』も『マンダレイ』も、じくじくと不快さが続く。
床に白線を引いただけの簡素なセットという実験演劇のような装置を、前作『ドックヴィル』に続いて使っている。民主主義という仮想現実を扱うのにこれほど似合いの美術もないだろう。民主主義の理念がどのように人間とその暮らしへ暴力的なまで介入して、抑圧するか。人間を取りまく物や自然を記号化した美術によって、理念の暴力性を深く印象づけるのに成功している。また、一見、非映画的に見えて、ハウスや浴場と書かれただけの場所を動く、グレースや黒人たちを真上からとらえるアングルを多用することで、神の視線を意識させるのは映画ならではのものだろう。台詞で進められるだけでなく、どのようにカメラが視線が移動することで、雄弁に物語られていくのが映画だとすれば、この神の視線は、惨憺たる民主主義への確信と受け取ることもできる。
性とセックスの場面が露骨だから、青少年の民主主義教材には不向きかもしれないが、いじめ問題に無関心ではいられない中高生にもぜひ観てほしい。いじめが民主主義と同根であることがわかるだろう。その一方、排除の論理こそが民主主義を維持している智恵であるともわかるはずだ。権力者と権力の所在とは必ずしも一致しないこと、主権とその行使の間の闇についても、『マンンダレイ』は考える素材をたくさん提供している。シナリオを手に入れて、グレースとウィレルムなどに分かれてディベートするのもいい。それでもわからないことは多く残るだろう。議論することでかえって増えるかもしれない。
少なくとも理解不能だからといって、とりあえず褒めてみることで逃げるのはよくないと気づくだろう。そういう人はグループ分けでは、「おしゃべり」になるのか、「カメレオン」になるのか。「誇り高い黒人」グループに誰もいないのは、なぜなのか。多様性や少数意見が生易しくはないことに頭が痛くなり、だからこそ多数決の無謀さに心寒するだろう。裁判員制度を目前にした大人が観るべきかもしれない。
『ドッグヴィル』『マンダレイ』とも、安易な賛同は受けつけない映画だと思う。そのとおり、ではなく、そんなわけはない、という批判を期待している作品のように思える。周到に配された論点を整理して、逐一批判すべきだろう。誰かやってくれないか。俺もいつかこの2映画を批判したいと思う。それまでは、マークと一緒に「役立たず」のグループにいることにしよう。
『ドッグヴィル』でアメリカの醜悪なスモールタウン民主主義を焼き払ったグレースは、今度は解放後も黒人奴隷制度を続けるアラバマの農場『マンダレイ』に乗り込む。ギャング団の首領を父に持つ愚かしい理想主義者グレースは、黒人たちに民主主義と自立を教えようとするが、ことごとく裏切られていく。黒人を鞭打ち刑にしようとする白人奴隷主から鞭を取り上げたグレースなのに、半年後に農場を立ち去るときには狂ったように黒人に鞭を振るうのだ。鞭打たれているのは甘い民主主義幻想だけではない。小狡い現実主義も打たれている。
鞭をしならせているのは、強大な軍事力を背景にした若く美しい白人女だから、誰でもブッシュとグローバリズムを連想するだろうし、そこから反米という予定調和に落ち着くこともできる。が、その不快な痛さは後を引く。愉快な痛みなんてもちろんないが、痛みが去ればかえって爽快な気分すら味わうことは珍しくない。『ドッグヴィル』も『マンダレイ』も、じくじくと不快さが続く。
床に白線を引いただけの簡素なセットという実験演劇のような装置を、前作『ドックヴィル』に続いて使っている。民主主義という仮想現実を扱うのにこれほど似合いの美術もないだろう。民主主義の理念がどのように人間とその暮らしへ暴力的なまで介入して、抑圧するか。人間を取りまく物や自然を記号化した美術によって、理念の暴力性を深く印象づけるのに成功している。また、一見、非映画的に見えて、ハウスや浴場と書かれただけの場所を動く、グレースや黒人たちを真上からとらえるアングルを多用することで、神の視線を意識させるのは映画ならではのものだろう。台詞で進められるだけでなく、どのようにカメラが視線が移動することで、雄弁に物語られていくのが映画だとすれば、この神の視線は、惨憺たる民主主義への確信と受け取ることもできる。
性とセックスの場面が露骨だから、青少年の民主主義教材には不向きかもしれないが、いじめ問題に無関心ではいられない中高生にもぜひ観てほしい。いじめが民主主義と同根であることがわかるだろう。その一方、排除の論理こそが民主主義を維持している智恵であるともわかるはずだ。権力者と権力の所在とは必ずしも一致しないこと、主権とその行使の間の闇についても、『マンンダレイ』は考える素材をたくさん提供している。シナリオを手に入れて、グレースとウィレルムなどに分かれてディベートするのもいい。それでもわからないことは多く残るだろう。議論することでかえって増えるかもしれない。
少なくとも理解不能だからといって、とりあえず褒めてみることで逃げるのはよくないと気づくだろう。そういう人はグループ分けでは、「おしゃべり」になるのか、「カメレオン」になるのか。「誇り高い黒人」グループに誰もいないのは、なぜなのか。多様性や少数意見が生易しくはないことに頭が痛くなり、だからこそ多数決の無謀さに心寒するだろう。裁判員制度を目前にした大人が観るべきかもしれない。
『ドッグヴィル』『マンダレイ』とも、安易な賛同は受けつけない映画だと思う。そのとおり、ではなく、そんなわけはない、という批判を期待している作品のように思える。周到に配された論点を整理して、逐一批判すべきだろう。誰かやってくれないか。俺もいつかこの2映画を批判したいと思う。それまでは、マークと一緒に「役立たず」のグループにいることにしよう。