相手の思考の中身を推察する能力を志向意識水準(intentinality)と言うそうな。
「私は~だと思う」「私は~と考える」というように自分の心の内を了解していることを、一次志向水準をもつという【私の思いや考え】。
「きみは……と思ってるんじゃないか」と他者の心のうちに意識を向ける能力は二次志向意識水準になる【相手の思いや考え】。
このきみの心のうちへの意識(推察?)に基づいて私の望みを了解し(三次志向意識水準)【相手の思いや考えをもとにした私の思いや考え】、
自分がどうしたいのか(四次志向意識水準)【それにもとづいた自分の意思】ということをきみに信じてもらう(五次志向意識水準)【それを相手が理解するという了解】までが、正常な大人ならだいたい到達する。
著書よりそのまま引用すると
「私が思うに(1)、きみはこう考えてるんだろう?(2)、つまり私が望んでいるのは(3)、私が……するつもりだと(4)、きみに信じてもらう(5)ことなんだと」
以上。
フィクションの世界を構築するには高い志向意識水準が必要だ。
六次志向意識水準の例として、シェイクスピアが出てくる。
『オセロ』ではイアーゴーがオセロを陥れようとしている。そのためにありもしないデスデモーナの不倫をオセロに信じ込ませる。ハンカチとキャシオーを巧みに使って。実際はそうではないのに、イアーゴーによってオセロは信じ込まされ、悲劇へとつきすすんでしまう。
実際にはそうではないと知りながら、オセロが信じ込まされるという状況を、観客は了解する。
観客に五次志向意識水準にいたらせることを想定できるシェイクスピアは、六次志向意識水準に到達しているというわけである。この水準には、誰もが到達できるというわけではない。
実は、この本は認知・進化人類学の分野の話で、志向意識水準の話だけで終わるのではないけれど、もう少し考えたいので記しておく。
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